
表現は、記憶を解放して、形態形成場を超えていくきっかけになる、のかも
148日目。
わたしには、「わたしの話は聴いてもらえない」という、わりと強固な思い込みがありました。
思い込み。
信念。
それは、ホ・オポノポノでいうところの「記憶」であるし、
シェルドレイクがいうところの「形態形成場」なのかな、と思います。
「わたしの話は聴いてもらえない」という思い込みを持っているから、
なにか他者とのコミュニケーションでつまづきがあったとき、
「あーあ、やっぱりわたしの話は聴いてもらえないんだ」と思ってしまう。
それは、事実とは違っているかもしれないけれど、その思い込み通りに事実を解釈してしまう。
または、ちょっとした偶然や、不可避な出来事でそうなっただけなのに、(要は、自分の存在が軽んじられたから、とか、わたしの話がつまらなかったから、聴くに値しないものだったから、というわけではないのに)
「またわたしの話は聴いてもらえなかった」と、事実をちょっと誇張?拡大解釈?して、おおげさに捉えてしまい、勝手に悲しくなったりする。
あるいは、そのような出来事を、無自覚に、わざわざ、自分で引き寄せてしまう。
……。
おぉ…。なんということでしょう…。
さらにいうと、「記憶」や「形態形成場」は、
他者から見ると、「おやおや???なにか違和感が…」と気づきやすいものもあったりしますが、自分のことだと、わかっちゃいるけどどうしていいかわからない、という状態に陥ってしまうような気がします。
わたし自身がそうだったからです。
「わたしの話は聴いてもらえない」というのは、わたしの思い込みなんだろうな。それはなんとなくわかる。
この思い込みを手放したいけれど、どうやって手放したらいいのか、ぜーんぜんわからない。
だって、「わたしの話は聴いてもらえない」っていうことを証明する出来事が、たーくさん起きるのだもの。
わたしはそんなこと、まったく望んでないのに。
って。
「わたしの話は聴いてもらえない」
その「記憶」を解放するきっかけが最近あって、それは、わたしが「表現すること」に取り組んだからだと思います。
***
2月に仲間たちとコンサートをしました。
わたしは、ピアノのソロ演奏と、ポエトリーリーディング&ピアノの即興演奏アンサンブル、ふたつの表現に取り組みました。
ポエトリーリーディング&ピアノの即興演奏アンサンブルについては、ほんとうにほんとうに得たものが大きくて、そのことまで絡めて書くと、話をまとめる自信がないので、そのことはまたいつか、あらためて書きたいと思います。
今回は、ピアノのソロ演奏で得たことを主な軸として、話をすすめてみたいと思います。
今回初めてピアノを習ったのですが、素敵なご縁から、とっても素晴らしい先生に教えていただくことができました。
その先生のレッスンは、ピアノのレッスンをいう枠を超えた、わたしにとっては、もはやエネルギーワーク、という感じでした。
というのも、先生がこんなことを教えてくださったからです。
ある曲を弾けるようになるためには、日々の練習やレッスンで、少しずつコツコツと、その曲と向き合っていきますよね。
それを、本番ではぜーんぶ捨てて、「無」の状態で弾くんですよ、と。
「無」。
むー。
これのなんと難しいことか…。
あ!過去にピアノのレッスンのことについて書いたこともあるので、もし、お気持ちが向いたら、こちらも読んでみてください。
「無」の状態で弾く。
自我(エゴ)を超えたところで「表現」する。
これって、こころを裸にしているようなものだなぁ、と感じました。
なんていうのかな、繊細の極み、みたいな精神状態。
ふだん自分を守ってくれているエゴはいない状態なので、ちょっと、いや、かなり特殊な精神状態。
世界に自分を裸のままさらけ出している。
とも言えるでしょうか。
ささいなことで泣いたりすることも、この頃はありました。
なんとも言い難い、なんて伝えたらいいのかわからないのですが、こういう状態で、本番のステージに立ちました。
とっても緊張してなにもわからない状態になってしまうかな?と思いきや、不思議なことに、客席にいらっしゃるお客さまのことが、わりとよくわかりました。
自分でも意外でした。
演奏しながら、わたしは、演奏にじっと耳を傾けてくれている人たちの存在を、たしかに感じることができたのです。
そして、わたしの演奏を完成させてくれたのは、じっと耳を傾けてくれている観客のみなさんでした。
わたしの演奏に、みなさん、耳を傾けてくださるのだなぁ。
「わたしの話は聴いてもらえない」という思い込みから、自由になった瞬間でした。
でもね、実は、ちょっとした裏話をすると、
「あ、このへんに座っている方は聴いてないかも」ということを、感じたりもしていました。
スマホの画面の明かりが見えたりしたからです。
ここで一瞬、
「あーあ、やっぱりわたしの話(ここでは演奏ですが)は聴いてもらえないんだ」という思い込みが、自動的に、壊れたテープレコーダーみたいに、繰り返し再生され…かかったのですが…。
聴いてない人もいるかもしれないけど、真摯に耳を傾けて聴いてくれている人もいるんだなぁ、って感じたのです。
ふたつの世界が同時に存在している、みたいな感覚でした。
「わたしの話は聴いてもらえない」という思い込みを持ったままのふだんのわたしなら、「聴いてない人」しか目に入らず、つまり「聴いてない人」しか自分の世界にはいなくて、「わたしの話は誰にも聴いてもらえない」と思っている。
でも、舞台の上で、わたしが経験したことは、「聴いている人」もちゃーんといるんだ、「聴いている人がいる」っていう世界が存在するんだ、ってことでした。
あのコンサートをきっかけに、わたしは、
「わたしの話は聴いてもらえない」という思い込みから、自由になったと思います。
***
それが関係しているのか、はたまた、ただの偶然なのかわかりませんが、
コンサートから少し経った頃、ちょっとしたディスコミュニケーションで疎遠になっていた友達から、久しぶりに連絡が来ました。
「あのとき、傷つけてしまっていたらごめんね」
って。
***
コンサートを経験する前も、そして、経験し終わった今も思います。
「表現する」って、なんておそろしいことなのだろう、と。
だって、どんなこともごまかせないので。
でも、人が表現に向かうとき、癒やしが起こることがある。
「記憶」から解放されて、「形態形成場」を超えていくことがある。
表現には、そんな不思議な力が宿っていると思うんです。
***
ライティング・ライフ・プロジェクト第5期、満席にて受付終了いたしました。ありがとうございました。
次回(第6期)は、5月中旬頃〜募集開始予定です。
いいなと思ったら応援しよう!
