何でもかんでもお金が関わるのって疲れるから、ちょっとその分量を減らしたいだけなんだよね。別にお金は嫌いじゃないよ。
noteの記事、「まみーたってどうやってお金を回してるの?」って聞いても、たぶん、なんの参考にもなりませんよ。にも書いたが、今、いわゆるライスワークを手放している。働かないで、生きていけるのか?と思われるかもしれませんが、持ち家で、自営をしている母の仕事をちょっと手伝ってお小遣い程度の報酬をもらったり、でも、基本は、単に貯金を崩しています。何のカラクリもありません(笑)。
ライスワークを手放しているからって、何も活動していないわけではありません。結構動いています。対話の本を出版したり、対話のプログラムの運営に関わったり、毎月定期的に4~5回対話会を開いたり、映画を共に鑑賞して対話する開催したり、芋煮会や「だた場があるだけ」のような場をつくったり、広島、鳥取、愛知、香川、いろんなところで対話会したり、いろんなことをやっています。じゃあ、そこで稼いでるんじゃないですか?と言われると、そういうわけではないんです。
やりたいから、これは自分がやることだと思ったから、やっている
対話会の開催や対話の本の出版や、人が集う場所をつくるっていうのは、自分がやりたいから、自分がやることになっていると思うから(「やるべきこと」という重さはない)、やっているだけで、特段、お金をもらうこと目的視していません。
「お金をもらう」を前提にやっていたら、ここまでいろんなことができなかったと思います。そして、私がやりたいことと違ってしまったと思います。お金を前提にしなければ、自分がリソースになるだけだから、すぐに動けるし、参加する人の選別の度合いも減り、私の好きな(笑)偶発性が高まります。実際、思いも寄らないような人が対話の場に現れたりするから、実に面白い。
やりたいこと、これは自分がやることだと思ったことをするのに、お金を絡める必要は別にありません。逆にそうしたければ、絡めてもいい。「いっぱいもらうことにしたら、どうなるかな?誰が来るかな?」という実験をしたっていい。同じ商品でも安い値段をつけるより、高い値段をつけた方が、価値がありそうに見えて、買う人も増えたりするわけですから。
私は、やりたいこと、これは自分がやることだと思ったことを、自分がやりたいようにしたいだけなので、お金がそれの促進材料になればもらうし、逆に歯止めをかけると思えばもらわないだけです。
無料でも1億円でも引き受けます
依頼されてお仕事をすることもあります。これまで、東京工業大学の大学院で講義したり、「"自分"を貫く人」として豊島区のイベントに登壇したり、愛知県の事業で日本語教育指導者に対話のワークショップを受け持ったり、対話の場を持って欲しいと、地方に出かけてみたり。
依頼だから、もちろんお金の話も出るけれど、基本的には「私がいいと思って依頼してくれるなら、無償でもやるよ。もちろん、1億円くれるって言ったら、喜んでもらうけど。」というスタンスだし、依頼してくれる方には、そういうようなことを言っています。
「私に依頼したい」と思ってくれるであれば、やれることが大切で、お金は二の次です。もちろん、「無償だから、まみーたを呼ぼう」ということであれば、話は別ですが。いずれの場合も、お金が判断基準になるウェイトを下げたいということです。
何でもお金のことにしなくてよかろう
私は、自分の家のことを「半開きの家おおさわんち」と言っていて、たくさんの人が泊まりに来たり、ご飯を食べに来たりします。ドネーションBOXは置いてありますが、来た人に殊更それについて言うこともないし、基本お金をいただくことはありません。
こういうことをしていると民泊にしたらどうか?と親切に提案をしてくださる方もいるのですが、それじゃあ、面白くないんです。それに、お金をいただくとなると相応の準備が必要だったり、泊める泊めないを自分の都合で決められなかったり、縛りができて、自由度が減る。それでは、私のやりたいことではなくなってしまいます。
何か得意なことがあったりすると、「それって仕事になるんじゃない?」、「仕事にしてみれば」みたいな声を聞くことがありますが、自分が得意なこと、できること、得意なことがあったとて、別に仕事にする必要もないし、お金をいただかなくてもいいと思います。しつこいけど、逆にもらったっていい。
資本主義が嫌いなわけではない。消費過多に疲れるだけ。
この世の中、物も豊富にあるし、ネット環境もいいし、いろんなことが可能な社会になっていると思います。
だけども、その可能になったいろんなことに全部価格がついちゃうと疲れちゃうんですよね。「これは、いくら」「これするなら、いくら」。お金を出すと、当然のようにそれに見合った対価を期待するので、体験に判断基準ができてしまったり。体験と自分の間に距離ができちゃう感じもします。
我が家に民泊を提案してくれたり、「それってお金になるんじゃない?」と良かれと思って出す声の裏側に、資本主義が、生活というか、暮らしの思想(?)、文化に浸透しいている度合いを感じます。もちろん、私だって、そこから完全に自由かというと、そういうわけではありません。自分の中に変な形で埋め込まれている資本主義的なものに驚くことは、日々あります。
じゃあ、私は資本主義が嫌いかというとそういうこともない。今、こうして文章を書いているパソコンも、大好きな本も映画も、資本主義なくしてはありません。ただ、これが生活全般を覆う必要もなかろうと思うだけです。
お金は顔を知らなくても、信頼関係がベースにあってもなくても、ものやサービスのやり取りができるから、より広く、より遠く、より速く、進むことができる。それが、資本主義の良さだと思う反面、一方で、「信頼関係」や「つながり」という部分が阻害されやすくもなる気もします。だから、たぶん、生活が消費で覆われて、何でもかんでもお金が必要になってくると、何とはなしに空虚な感じになったり、疲れちゃうんだろうなと思います。少なくとも私は。
だから、お金じゃないことの分量を少し増やしたい
だから、「思考優位になってる時代だから、身体性や感情も大切にしたいね」ということと同じように、「資本主義に生活が覆われすぎているから、そうじゃないものの分量を少し増やしたいね」と思っています。何よりも、その方が自分にとって楽だから。そして、お金じゃないものの分量が増えたことの手応えも感じています。
ちょっとバランスを変えるだけで、景色が変わってくる。そんなふうに思います。ちょっとだけでもね。
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