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令和の焚書事件(出版妨害事件)を、言論の自由と出版関連業界の問題として考えてみる


「トランスジェンダーになりたい少女たち」

2024年4月3日、とうとうあの本が発売された。
 
昨年末に活動家の圧力によってKADOKAWAからの発行が見送られたアビゲイルゲイル・シュライアーの"Irreversible Damage"の邦訳である。

広告もなかなかふるっている。「焚書」を前面にだしている。

さて、経緯を

KADOKAWA本への出版中止アクティビティ

昨年の暮れ、KADOKAWAから『あの子もトランスジェンダーになった』というタイトルの本が1月に発売されるとの情報がSNSをかけめぐった。
 

そして「トランスヘイトダ!」の出版反対運動

どうやら、出版関係者有志による「出版反対運動」が起こっていたようである。

ちなみに、この、よはく社の小林えみ氏は、本邦キャンセルカルチャーの先駆け?「オープンレター 女性差別的な文化を脱するために」の呼びかけ人にも名を連ねている。

高島鈴氏はなかなか口が悪いようだ。
そして「書く力」を盾にとっているあたり、やり口としてあまり麗しくない。

このような動きに関しては「現代の焚書」「検閲」といった批判もあったが、これで、KADOKAWAが出版取りやめてしまったので、活動家諸氏にとっては「成功」であったのかもしれない。

ほかにも、さまざまな作家や編集者が加担していたようである。

「あの本はトランスヘイト本だから発売させるな」である。

既に進行している別企画を盾にしての圧力をかけようとした可能性もありそうだ。

編集者や翻訳者ってどんだけ偉いんだよ感もある。

で、お決まりの「国家の検閲は問題だが、市民が抗議するのは問題ない」がでてくる。昭和の焚書事件(後述)が、民間による出版妨害だったのをご存じないのだろう。

KADOKAWAの出版を中止に追い込んだ、出版関係者さんたちのご発言については、まとめていてくれた方がいるので、詳しくは下記をどうぞ。

 

そして、2023年12月5日、KADOKAWAが出版中止を発表した。

 

こうなると、どこかが版権を引き取って出版の運びとなることを期待するのが人情である。

そして、産経新聞出版が発売…ということになったわけだが、すんなり出版ということにはならなかった。
 

発売直前の衝撃的なニュース

「トランスジェンダーになりたい少女たち」の発行元の産経新聞出版や、複数の書店に対し、放火の脅迫があったとのニュースが流れた。

 

過激な活動家があちらこちらを脅迫する…といったことはしばしばあるが、2月に『ネトゲ戦記』の販売に関して、アニメイトが脅迫されたという話があったばかりである(出版はされている)。

そして、出版妨害ではないが、教員の発言に係る爆破予告メールによって「明星大学(明星学苑  東京都日野市)」が、4月1日予定だった入学式を中止した。

ちょっと最近、きな臭い話が多すぎる。

お手製帯で、販売を妨害?

発売日前日の2024年4月2日、販促とは逆行しそうな手作り帯が観測される。


そして4月3日「トランスジェンダーになりたい少女たち」発売

発売日の4月3日には、産経新聞社が社告を出す。


社説もこの件である。


産経新聞と産経新聞出版の姿勢は「言論弾圧に屈しない」というところで一貫している。

書店への脅迫があったことで、発売の一時見送りをする書店がでるだろうことから、産経が直販もやるようだ。


さまざまな見方はあれど「言論弾圧」である可能性は高い

背景としてのジェンダー論争

海外でも出版には紆余曲折があったようではあるが、本邦のLGBTQ活動家の動きはここ10年ほどで、非常に強くなっている。

そして、その理論的背景(屁理屈は)ジェンダー学者というものが提供している。

ジュディス・バトラーという米国の哲学者が大もとらしいが、本邦での親玉といえば、清水晶子氏あたりではないだろうか?

まあ、いっぱいいる(下記)

https://statementontgarticle.mystrikingly.com/

ぶっちゃけいってしまうと、戦後「反差別」しか権威のよりどころがなくなった大学人たちのどん詰まりの果ての下剋上としての、オールドフェミニズムvsLGBTQといったところだろう。

クソ長い連ツイのままであるが、一応まとめてはある(下記の最後の方)

しかし、こと今回の焚書劇は「言論弾圧」といった側面に焦点を当ててみる必要も大きいのではないだろうか。

「言論弾圧」という面だけを取り出して、考えてみることにしたい。

業界団体の動きの鈍さ

この焚書騒動…、まあ、果敢に販売しとる書店もあるようで、かといって尻込みした書店を責める気にもあまりならない。

客と従業員を人質に取られている状況である。

とはいえ、書籍商・出版・取次・図書館等の、書籍関連業界団体が全く動かないというのは、さすがにいただけない気がする。

「言論の自由」に大きく関わる問題である。

一応確認してみたが、どうにも動きがない、以下列挙しておく。

全国書店商組合連合会

ない、ないぞ!
末端の書店が脅しを受けているのに頬かむりか?

昭和の焚書事件(後述)では、一応声をあげていた団体であるので、情けなさマックスである。

東京都書店商業組合

こちらも、ない。
 
本筋には関係ないが画をみて、笑えないなあと感じた。
第一、この絵の構図を瞬発的に理解できるのは、55歳以上ではないだろうか?真ん中の箱状のものがテレビだということがパッとわかるのは「家具調テレビ」を見たことがある年代だろう。

「テレビばっか見ているとバカになる」も、もはや古すぎてピンとこない人も多いだろう。

全国の都道府県に書店商業組合はあるので、ここはここまでにしておく。
 

日本図書館協会


日本図書館協会も本来なら声をあげてもおかしくないわよねえ。

なにせ「図書館には図書館の自由宣言」というものがある。
『図書館の自由宣言 第4 図書館はすべての検閲に反対する』

https://www.jla.or.jp/library/gudeline/tabid/232/Default.aspx

テロ予告その他による出版妨害なんて「検閲」だ。 
んでも、こっちもなにも出てないわね。

出版の自由あっての図書館ではないのだろうか?

日本出版取次協会

実績ベースで最も期待薄のところではあるが一応確認した。案の定うごいてない。

日本書籍出版協会

1969年の言論弾圧事件(後述)では声明をだしていた団体なのに…こちらも弱腰のご様子である。

 

全国出版協会

学校関連の運動も関連団体でやっているようだ。



ハッキリ言って、総員頬かむりしている。

この頬かむり状態で「書籍文化を守れ!」「街の書店を無くすな!」とかいったところで、説得力がまるでない。

まずは、業界団体としての筋を通す声明のひとつでも出してみてほしい。

どこも声をあげないのであれば、消極的に出版妨害者の片棒を担いでいるのではと疑われてもしかたないだろう。

 

誰がスイミーか?

「言論の自由」において「出版(とその流通)」は最後の砦だろう。

 それ以前に、当該分野の自主規制等で「書き手」が淘汰されてしまう部分もあるわけですよ。

世論とか教育とかも関係する。

みんな「スイミー」を知ってるかしら?


有名な童話だけど、国語の教科書で読んだ人は少なくないのではないだろうか。

小さな黒い魚「スイミー」が、怖い大きな魚にたべられないように、知恵を使って、怖気づく小さな魚の力を結集してってお話。

今回の焚書・脅迫事件で個々の書店が怖気づくのを責める気にはならない。

だが、関連業界の団体が全く動かないのは、その役割をはたしていないということになるだろう。

業界団体が「スイミー」やらずにどうすんの?

と思う。

 

「自由」を守らないリベラル言論人

言論の自由でいうなら、こーいう人達「自称スイミー」としてがなりたててきたけど、肝心のところでは出てこないようだ。

あいちトリエンナーレ2019、日本学術会議 会員任命拒否、検察官定年延長、加計学園問題……今、起きている出来事の本質を見抜くための論考集。

「百人組手で知性を鍛え、不当性に抗う訓練になる一冊」――荻上チキ(評論家)

批判的思考を養うための書!あらゆる「自由」が失われつつある中で、研究者・作家・芸術家・記者などが理不尽な権力の介入に対して異議申し立てを行う。
少しでも声を上げやすい世の中になるようにと願って26名の論者が集い、「自由」について根源的に掘り下げる。
批判的思考を養うための書!

謳い文句は非常に勇ましいのであるが、今回のシュライアー本の出版妨害に対してこの人達が何か声のひとつもあげただろうか?
4月6日時点で、そのようなものは見当たらない。

「スイミーしぐさ」でしかなかったってことだ。

批判的思考とは?と問いたくなる。


書店という小さなお魚が怖気づいてしまうことについて責めずにあの手この手を繰り出す産経新聞出版のほうが、虹色のこわいお魚から、言論の自由を守ろうとしているわけで、よっぽどスイミーしているように見える。


 

昭和の焚書事件から考える

書籍の「中味」の問題ではないんですよ。 昭和の焚書事件「言論出版妨害事件」のときは、ちゃんと「言論の自由」を守るための声明出せせたよね(取次以外)。

昭和にあった「出版妨害」事件

創価学会に関する論評本の出版に際して、執拗な妨害があったとされる事件である。

1965年に端を発し、藤原弘達氏の「創価学会を斬る」の出版(1969)を契機に、「言論の自由」の問題として、注目を浴びるようになる。

表紙出したかったのでamazonリンクを使ったが、国会図書館送信可能(要利用登録)

以降、大手新聞社や政治家含め、関係各方面がきちんと「言論の自由」の問題としてとりあげたことで、創価学会の池田大作氏が、行き過ぎをみとめて謝罪といった形で一応の終息を見ている。

国会でも幾たびか問題になっている。

言論の自由の面だけでなく、独占禁止法の問題としても取り上げられている。

下記からページ内検索で「出版

第63回国会 衆議院 文教委員会 第20号 昭和45年(1970年)5月8日

第63回国会 衆議院 法務委員会 第25号 昭和45年(1970年)5月12日


宗教には信教の自由が認められているが、とはいえ、だからといって全面的に「聖域」にして、全く批判できないのはまずいと思う人が多かったのだろう。実に様々な人達が声をあげるにいたった。

藤原弘達氏の呼びかけに応えたのは「共産党」「社会党」「民社党」の三党であった。テレビでの口火をきったのは日本共産党である。そして、文化人らも「言論・出版の自由に関するシンポジウム」を開くなどもしているし、日本出版物小売業組合全国連合会日本書籍出版協会も声明を発表している。

(なお、日本出版取次協会は証人喚問に出席を要請されたものの、スルーした模様)

半世紀以上前の話といえど、これは書籍出版関連業界にとって非常に重要な出来事である。これをふまえれば、今回はKADOKAWAへの出版妨害の時点で、業界は動くべきだったのではないだろうか。


昭和の焚書事件と令和の焚書事件

昭和の焚書事件は、出版社に対する出版妨害という点においては変わらないし、出版社や著者のみならず、流通、販売にまで妨害の手が及んだという点でも変わらない。

ちがうのは主に2点だ。

令和版焚書では

  1. 論評の対象が「ある団体の体質やと成員の行動」ではなく、「一部活動家の動きに同調する支援者の作り出した風潮」であった点

  2. 出版妨害の動きをする者に出版関係者がふくまれていた点

 

とにかく「言論弾圧」の一種であったことだけは間違いないだろう。

SNS上でのKADOKAWAへの出版妨害活動が「出版関係有志」という形をとったことも、問題にしにくかったポイントかもしれない。

KADOKAWAが出版中止したことの意味は案外大きかった

KADOKAWAが出版中止したのは、実は出版社としてかなりまずいことだったと私は思う。

昭和の焚書事件の際に、辛うじて保った「言論の自由」を投げ捨ててしまったようなものである。

そして、産経新聞出版がそれを拾おうとしている。

いや、KADOKAWAも被害者といえば被害者ではあるんだが、出版中止してしまった以上は、どういった経緯なのかなどを暴露するわけにもいかないだろう。

暴露してしまうと「出版の自由」の問題になってしまう。「当社は出版の自由をこのような経緯で放棄しました」はいえないだろう。

脅迫の実像を暴露できるのは「出版した者」だけである

(産経は暴露するんじゃないかしらね、だって出版したんだもの)

「自社の方針により自社の判断で本を発行・販売して稼ぐ」が出版社である。

「ネトゲ戦記」の出版を中止しなかったことが、出版社としてのせめてもの矜持と思いたい(もちろん大きな会社故チームが違っただけ…という可能性もあるが)。

 

言論の自由を守るために

出版妨害は卑怯なやり方

実のところ、世に嘘くさい本はあふれている。
 
怪しげな健康法の類や、慣行農法の危険性を煽る本、放射能デマを煽る本、不利な情報を隠した本等々、いくらでも存在するのだ。

いちいち取り合っていたらキリがない。

なのになぜ、ジェンダー絡みとなると突然「ヘイト本」というお叱りが出てくるのだろう?

言論には、言論で批判すれば良いではないか?

妨害によって出版を止めようとするのは卑怯だということをもう一度思い起こしておきたい。

昨今のクィア派ジェンダー活動家のやることは、かなり目に余るものがある。読まずにヘイト本認定をする自由もあるといえばあるだろうが、それは己の信用というものを毀損するだけではないだろうか。

一抹の真実もない本なんて存在しないだろう。
殆どプロモーションのために作られたような本であっても「それを売りたい」といった真実はかくれている。

どう読むか?は人それぞれで良いと思う。

そう、それは「スイミー」に何を投影するか?が自由であるように。

(レオ・レオニがあの世で苦虫かみつぶした顔をしているかもしれないがw)
 

出版関連業界はこれでいいのか

前世紀末あたりから出版不況という話はよく耳にした。そして昨今、中小書店の苦境がしばしば語られ、書店に対する援助とかいう話も出ている。

だが、「活字離れ」とか「シェアをamazonにとられた」とかいう話で本当にいいのだろうか?

書籍の出版や流通、書店の経営に関しては、取次の配本制度自体がネックになっているという話もある。

「売りあげの上がった書店には自動的に売れ筋が配本されてくる」

といったシステムは、地域の人口ボーナス時期にしか通用しないだろうし、売れ筋予測が外れていたら惨憺たる状況になるのは目に見えている。公共図書館や学校図書館等、安定した得意先を持つ書店か、FC等で売り上げをまとめられる書店以外は生き残るすべはなくなってしまう。

ネット時代に突入し、活字(テキスト情報)に触れる機会は、前世紀末頃よりも逆に増えているようにも思う。
「活字離れ」という物語も疑わしい限りである。

「市場ニーズを満たす書籍」が減っているから、出版関連産業がふるわなくなっているのではないだろうか? 
 
そんな疑念もわいてくる。
 

「読書」という言葉の檻を突き破れ!

「読書」ときくと、夏休みの宿題の「読書感想文」を思い出す人は少なくないだろう。

課題図書等、正直あまり面白かったためしがない…とか、埋まらない原稿用紙のマス目を見て焦る…いう思い出だけが残り…という人も少なくないようである。「苦痛に耐えながら物語を読むこと=読書」といった印象から、書籍と疎遠になってしまった人もいるだろう。

ああ、実は私もそうだった。では、書物や活字に親しんでいなかったかというとそうでもなく百科事典を読みふける子供だった。いわゆる「物語」が嫌いかというとそうでもなく、父の友人がもってきてくれたシャーロック・ホームズシリーズなどは貪るように読んでいた。

なんのことはない、課題図書等、学校でお勧めされる系統の本があまり合わなかったにすぎなかったのだった。小学校高学年の頃だったか住んでいた市に新しい図書館ができ、中学校にはいるあたりから「情報収集」のために書籍を読めるようになり、あっけなく「読書嫌い」は解消してしまった。

まあ読書感想文を書くことや、課題図書を読むことから本好きになる人もいるのだろう。だが、そういう人ばかりではあるまい。

出版・書籍関連業界が「正しい読書文化」にこだわるあまり、市場の「知りたい」という欲求に応えていないことが、出版業界低迷のひとつの原因であるように思う。

それが業界の相互依存を招き「活動家の正しさ」に「言論の自由」が脅かされても、声のひとつもあげられないことに繋がっているのだとしたら、とても悲しいことだと思う。

 

<おわり>



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