【ここに来るまで】1995-1998年 ニュージーランドの高校に日本語教師として派遣中にパートタイムで修士課程開始
【ここに来るまで】シリーズ
このシリーズでは、公立高校の英語教員だった僕が、日本語教育と出会い、ニュージーランドの大学教員トップ10の一人として表彰されるまでの歩みを書いていきます。こういう展開になるとは、夢にも思っていませんでした。
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🌈 教育学でMaster of Philosophy(研究修士)を開始:きっかけは妻の妊娠とつわり
文部省の『外国語教育施設日本語指導教員派遣事業』によりニュージーランドのハミルトンに派遣された1年目の1995年のクリスマスホリデーは、ニュージーランド国内を旅行する予定でした。しかし、妻が妊娠し、つわりが重かったため旅行ができる体調ではありませんでした。
ニュージーランドのクリスマスホリデーは年度の終わりと重なっており、12月半ばから1月の終わりまで、教員もかなりゆっくりすることができます。旅行ができないため、自宅で妻と一緒にいながらできることを考えていた時に、市内にある国立ワイカト大学で言語教育や言語習得について学んだらというアイデアが浮かびました。
しかし、新年度が始まると高校での勤務があるため、平日の講義には出席できません。大学の先生に相談したところ、大学院の講義を取らないで研究論文だけを書く修士課程(研究修士 Master of Philosophy、MPhil)があることを教えてくれました 。ただし、この学位は修士号と博士号の中間に位置するため、すでに修士号を取得しているか、修士論文を書くための研究の基礎知識や経験があることが前提でした。
僕は学士号しか持っておらず、研究経験も知識もほとんどなかったのですが、高校教員としての教育経験や東京外国語大学での事前研修、文部省による選抜を経ての派遣(全国から選抜された教員22名の一人)などを考慮してもらい、幸運にも入学が認められ、1995年の3月1日から開始することができました。
🌈 テーマは日本語教育におけるチームティーチング
テーマは日本語教育におけるチームティーチングで、日本語母語話者であるティーチングアシスタントの実態と活用についてにしました。
日本の高校の英語教員としてアシスタントランゲージーティーチャー(ALT)とのチームティーチング経験があったこと、ニュージーランドの高校で日本語のアシスタントとして勤務していたことから、その実態と効果的な活用方法に関心を持ったためです。
🌈 パートタイムで2年で修了を目指したが…
MPhilはフルタイムでは1年で修了ですが、パートタイムだったため2年間を予定していました。ニュージーランドの任期中には文献調査とデータ収集を中心に行い、1996年の3月下旬に日本に帰国しました。
日本に帰国後、指導教官と連絡を取りならがら、論文に取り組むつもりでした。(当時emailが普及し始めてましたが、やり取りはFAXが中心でした。)しかし、帰国して1週間ほどで勤務校の新年度が始まり、担任となり、校務に追われ、全く時間を取ることができませんでした。
それでも、夏休みなどを使って細々と論文を書き続けました。高校の英語教員であっても、英語を教えることと研究論文を書くことは別物。30,000-50,000語の論文を書くのは初めてで、論文としての質にも、文法上の誤りにも悩まされました。
🌈 3年かかって取得
なんとか書き上げて修士号を授与されたのは1998年の3月。開始してから3年、帰国してから2年が経っていました。しかし、高校教員をフルタイムでしながら修士論文が完成できたことは僕にとっては快挙でした。
🌈 永住権申請の道が拓けた
1994年7月にニュージーランドに赴任した時には修士号を取得することは想像していませんでした。しかし、この修士号取得は、ニュージーランドの永住権取得のためのポイント加点となり、永住権の申請条件を満たすことになり、僕と家族の人生を大きく変えることにつながっていきました。
あきらめなくてよかったですし、家族の支えにも感謝しています。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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