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母親失格な私が子どもをかわいいと思えるようになった3つの要因

専業主婦になってから、子どもを「うざったい」と感じてしまう時間が増えた。

彼らは常にわたしの気を引き、(特に2歳児は)自分のことは自分でできないため頻繁に助けを要した。

もうなにもかもが嫌で、逃げ出したくなった。子どもたちに非はない、全面的にわたしがだめな母であって、だからわたし一人が消えればそれで済む話だと思い込んだ。



そんなわたしだったが、いま、子どもたちを心の底から「かわいい」と思える時間が増えてきている。
あんなに嫌だったごっこ遊びを、本気で楽しめている自分に驚いた。

思えば、ワーママ時代のわたしもそうだった。長女とリカちゃん人形の設定を細かく作りこんだり、待ち時間など少しした時間でしりとりやマジカルバナナといった言葉遊びをしたり。

子と共に過ごす時間は、ワーママ時代の方がなかった。だからこそかもしれない、わたしは、純粋に、楽しんでいた。子どもとの遊びをおもしろいと思った。

専業主婦になってからしばらく忘れていたその楽しさを、不思議といま、再び感じられるようになっている。

それがなぜか、記録しておく。

きっと、渦中にいる8か月前のわたしは、これを読んでも「だから?」としか思えないだろう。聴こえないのだ。だって、そういう話を聞きたい訳じゃないのだから。

それでも、わたしは書く。だってもしかしたら、今まさに猛烈な嵐の最中にいらっしゃる方にこれが届くかもしれない。そうしたら、小康状態のときにこれを思い出すかもしれない。「ああ、あのひとが言っていたのはこういうことか」と、そういう類の言葉になるかもしれない。


だから、書く。だってわたしも、そういう言葉に幾たびも救われてきたのだから。



1. 「いま」に集中できるようになったから

以前のわたしと今のわたしの何が違うのかといったら、圧倒的にこれだ。
わたしは「いま」がわかるようになった。

わたしの場合は「音」だ。行動の合間に音が聞こえるようになった。
バイク、エアコン、プールの水の流れ、メイドさんの話し声、雲を動かす風の音。

以前のわたしに音はなかった。聴こうと意識した音は聴こえても、聞こえてくる音はなかったのだ。

わたしは趣味で音楽をする。不思議と長続きしていて、とりかかるのに面倒だと感じず、苦も無く時間を忘れて向き合っていられる。
なぜ読書でもアートでもなく音楽なのかといったら、音楽はわたしにとって、究極のマインドフルネスだからだ。

音が聞こえるようになった頃、わたしはようやく自分の環境を受け止めることができるようになっていた。
そして、自分に弱いところ、だめなところ、劣るところがあると認め、それでも生きていくしかないのだから、勝負ではなく自分なりのものさしで「いま、いい感じ」を大切にしていこうと考えを転換していく途中のできごとだった。

「いま、いい感じ」については、もっと時間を割いて語りたい。あとでもう少し詳しく、記事に書いてみよう。


2. 子の駄々は必要なもの、かつわたしとは無関係と思えるようになったから

『「叱らない」が子どもを苦しめる』という本を読んだ。



この本いわく、子どもが社会化するためには「世界からの押し返し」を経て、自分の思い通りにならないということを学ぶ必要があるという。
そこで子どもは不機嫌になるものの、親に求められるのは、その不機嫌を親子という関係の中でなだめていくこと。そして、なだめ方を子どもが会得するまで付き合うことだ。

駄々をこねられたり、泣かれたりするのは、正直めんどうくさい。のちの事を考えて、泣かれるくらいなら「これくらいいっか」と許してしまいそうになる。

だから今までは、駄々をこねるな、泣くな、さもなければわたしが折れた。そのどれに至ってもわたしの中の不機嫌は消えずに、不完全燃焼を起こしていた。

でも本当は、それらは子どもにとって必要なものなのだ。世界からの押し返しに、不機嫌になるのは仕方がない。わたしだって、「子どもが言うことを聞かない」という押し返しに、不機嫌になっていたではないか。

それでも社会化、つまり人間のルールの中で生きやすくなるためには、その不機嫌をなだめつつも学んでいくしかないのだ。

それがわかってから、子の駄々を少しずつ許せるようになっていった。


泣くもわめくも、無駄な時間はひとつもない。

そう、わたしは、泣く、わめく、駄々をこねる時間を「なにも産まない、意味のないもの」と一方的に評価し、ムダなものであり忌むべき、無くすべきものに分類していた。だからイライラしたのだ。

この時間は必要なものだとわかって、だいぶ楽になった。

さらに、これが「子どもにとって」必要な時間だとすれば、わたしには直接に関係のないもの、つまり、わたしの感情を動かさなくてもよい、わたしが背負わなくていい、わたしの問題ではないことにも気づいた。

ならばとことん、彼/彼女のために、おとなであるわたしが付き合ってあげようじゃないか、と、少し余裕を持てるようになった。

もちろん、駄々やきょうだい喧嘩にいつもにこやかでいられるほどの聖人君子ではない。鬼のような形相で叱りながらも、自分を痛めつけることはなくなった、ただそれだけ。

(いつも機嫌のよい母でありたい……。)


3. ファミリー・ライフ・バランスがとれてきたから

ファミリー・ライフ・バランスという言葉については、以下でも述べている。


わたしはこの言葉に、時間を「責任を負うべきもの」と「自分であること」で按分することという認識を持っている。

妻・母である責任に押しつぶされそうだったわたしは、その責任を少しずつ手放し、自分のやりたいこと、「良かったな」と思える時間の使い方をすることで、少しずつ「自分である」時間を増やしていった。

「自分である」時間を増やすにあたり、考え方の土台になったのは以下の記事でも紹介している「母親になって後悔してる」という本だ。


この本の最後で、「母親という役割ではなく、母親という関係」という言葉があった。それにわたしは救われた。

母親であるということは、わたしの人生の枝の一つだ。わたしは「母親」という名前なのではなく、子どもたちから見て「母親」という関係を担った一人の女性であるにすぎない。

例えば、わたしにとってAさんは元同僚、Bさんはママ友、Cさんは大学時代の友人で、わたしはそういう人間関係を持っている。
同様に、わたしの母とわたしは「母親」「娘」という人間関係だけど、母は人間性のすべてが「母親」で構成されているわけではない。わたしが見ている母の一面は一部にすぎないのだ。


だからわたし自身も、子どもたちとの関わり方において母親であるだけで、わたしという人間の一挙手一投足が「母親」のふるまいである必要もない。
この考え方は、わたしをずいぶん楽にしてくれた。

好きに生きる。夫や子どもたちをできないことの言い訳にしないで、楽しく生きる。


総じて、余裕ができたから

これらの逡巡を通して、わたしには余裕ができた。子どもたちとの時間を楽しみ、かわいいと思えるまでに復活したのだ。

それまでわたしは、自分を母親失格だと思っていた。子どもとの時間を楽しめない、それなのに子どもを産んでしまって申し訳ない、と。

だけど、それはわたしの一面であり、すべてではない。わたしは、心の余裕があれば子どもたちをかわいがれる人間性を持っている。優しさ、愛情、それらが欠如しているのではない。だいじょうぶ、ちゃんとある。

だから、いまつらいひとたちに向けて書く。あなたは大丈夫だよ。いつもがんばっていてえらいね。

自分以外のもののために時間を使いすぎなくて大丈夫。たまには自分にとって心地の良いことに集中して、「いま」を楽しんでもいいんだよ。


この言葉が、8か月前のわたしのような、がんばりすぎてはち切れそうなひとに届きますように。

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まみ┆元管理職、キャリアブレイク中
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