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タイで学ぶ「社会で子どもを育てる」ということ

社会で子どもを育てる、といったら、次に浮かぶものはなんだろう。

産後のデイケア事業、子育て給付金、教育機関の無償化。

税金で子育て支援事業を行いましょう。これこそが、「社会で子どもを育てる」ということなのです。

わたしは感謝した。先人たちのおかげで、追い込まれずに子育てできる!

しかし、ふしぎだ。どうして「社会で子どもを育てることは良いことだ」という絶対正義をみな口にするのに、その結果に対して子持ち様論争がおきるんだろう。


タイでは未就園児はアイドル

タイに住んで驚いたことと言えば、みなさん子どもに超絶やさしいことです。

わたしの住むアパートの掃除をしてくれるメイドさんたちは、必ず子どもと遊びたがります。
タイ語でめちゃくちゃ話しかけ、子どもの足をコチョコチョくすぐります。「通じないかも?」なんて躊躇はみじんも感じられません。とにかく話しかける。大人には無愛想でも、子どもには特大スマイルです。

そして、アパート主催で子ども向けのイベントを実施してくれます。軽食や飲み物が出て、工作したり写真を撮ったり。

日本でマンションに住んでいた頃、「ご近所に迷惑かけないようにしなくちゃ……」と子どもに静かに過ごさせていたわたしには、驚きの連続でした。


子連れOKで入れるお店が多い

退職前、同僚がわたしに「子どもが入れないレストランはタイに存在しない」とアドバイスをくれました。そんなバカなぁ~!と返しましたが、あながち冗談ではないかもしれません。

超高級店はまだ行ったことがないのでわからないのですが、少なくとも日常生活において、お店で子どもが泣いていても特段気にされません。

「キッズカフェ」という、子どもと親が一緒に入れるカフェがいくつもあります。子どもは遊び場ではしゃぎ、親は隣接のカフェでゆっくりと休むことができます。


交通事情も子供にやさしい

こちらの記事に書いた通り、タイでは横断歩道がないような道でも交通量が多いため、車が通行している道を無理矢理わたることになります。




運転マナーは荒く、車もバイクも我先にと走っていきますが、ベビーカーで通ろうとすると、わりと止まってくれます。

さらに驚いたのは、電車内です。
数駅先のショッピングモールに行くため子どもたちと電車に乗りました。下の子はベビーカー、小1の上の子は立っています。

上の子は東京の電車生活を知っているので、立ちっぱなしでいるのも苦になりません。しかしその時、大学生くらいの若者が子どもに声をかけ、席を譲ってくれました。

感激しました。小1といえどもまだまだ子どもです。優しくしてもらえて嬉しかったのでしょう、娘は「コップンカー」とお礼を言って、ニコニコ微笑みました。


日本人、「静かにしなさい」って言うネ

子どもの習い事で知り合った中国人の奥様に言われました。

日本人、すぐ「静かにしなさい」って言うネ。タイ人も中国人もそう言わない、子どもウルサイの仕方ない。

ふーーーむ、なるほど。
ではなぜ、わたしたちはすぐ「静かにしなさい」と言うのでしょう。

恥の文化だから?人様に迷惑をかけるから?
迷惑って、何だろう。


タイの「気楽さ」「ゆるさ」

タイに住んでいると、自分にも他人にも少しずつゆるい、そんな雰囲気を感じることがあります。

時間通りに来ない。品質がバラバラ。昨日はダメだったのに今日はOK。

そのゆるさにイラつくときもあれば、救われるときもあります。

あ、これが「迷惑」なんだな、と、腑に落ちました。
「迷惑」は絶対的な悪者ではなくて、かけもするし、かけられもするものなのです。


子育てとは、「迷惑」をかけること。?

わたしたちは「迷惑をかけるのは悪いこと」と耳にたこができるほど教え込まれてきました。
だから、自分は絶対に迷惑をかけないようにします。わたしは我慢して迷惑をかけまいと努力しているのだから、他人もそれを守るのは当たり前だと錯覚します。

それは、とても強い要求です。破られると腹が立ちます。自分の努力を無下にされた気持ちになります。

だから、迷惑者を糾弾します。それができない場合は、かかわりを絶とうとします。そのとき、ひとは、とても冷たい目をしています。

最初に謝ります、すみません。声が大きい、落ち着きがない、すごくおしゃべり―――これらの子どもの行動を「迷惑」と言うならば、子どもは必ず、迷惑をかける生き物です。

子どもの行為は迷惑だ→迷惑はかけてはいけないものだ→迷惑をかけるヤツは悪いやつだ→だから非難する、あるいは無関心になる。社会の無関心です。それは、子育て世代を孤独に追い込む、おそろしい不作為行為です。


「関心」が全世代を救う

いま、スーパーに行けばどの店員さんも笑顔で挨拶をしてくれます。
駅の改札に行けば、手招きされ、ベビーカーが通れる広い改札を案内してくれます。

わたしは、「社会で子どもを育てるとは、こういうことなんだ」と思いました。

それは、税金で立派な建物を作ることではなく、行政が子どもの支援事業を充実させることでもなく、ましては、給付金をばらまくことでもありません。

それぞれが少しずつ、子どもに対して関心を持ってくれること。これこそが「社会で育てる」ことの真意です。

関心を持つためには、その分の心のスペース、余白を確保していないとなりません。

これは、競走で忙しく、他人にやさしくなれるほど心に余裕がない社会では難しいことです。少なくともワーママ時代、あるいは独身時代のわたしに、他人の子どもを気にする余裕もきっかけもなかったし、その方法もわからなかったです。

だけどここタイでは、若者であっても、子どもにやさしくしてくれます。それは、文化なのか、教育なのか、親の立ち振る舞いなのか。子どもとか大人とか関係なく、他人を気に掛ける余裕があるのか(ただ、周りを見ているという感じでもないのがふしぎなんだよな)。

いずれにせよ、関心があるから子どもの存在が「見える」。見えるから、行動に表れる。たとえそれが笑顔だけであったとしても、わたしは大変救われるのです。


「余裕がないから関心なんて持てないよ!」という声もありますが、これはもう卵が先か、鶏が先かの議論です。
マクロ的視点では、働き方改革や偏差値至上主義からの解放により社会全体に余裕が生まれると考えられます。しかしそれには時間がかかりそうです。

まずは自分から、少しだけ「自分以外」に目を向けてみること。子どもを見てみること。これこそが、「社会で子どもを育てる」という抽象的概念の具体例です。そしてこれは、子育て世代だけでなく、全世代・全属性のためにもなるはずです。


そう信じて、いまは「迷惑」と呼ばれるものをかけまくっているわたしですが、この期間がおわり、子どもたちが親になるころには、子どもの行為が「迷惑」と呼ばれなくなり、真の意味で「社会で子どもを育てている」と言える状態になるように、少しずつ、他者に関心を寄せて行こうと考えています。



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まみ┆キャリアコンサルタントな駐妻
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