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「自分で決めたんでしょ」に絶望したから、わたしはなだめる。励ます。一緒に考える。

人生は決断の連続だ。どちらが良いか吟味して、自分でも納得したと思い込んで、ようやっと選択できる。

だけど、時には迷うこともある。

本当にこの道で良かったのだろうか。
あの「もしも」、この「もしも」がとめどなく胸中を去来する。




駐妻のみなさんとお話ししていると、彼女たちは何度もそれを口にする。

自分で決めたんです。

そう、わたしたちは、自分で決めて帯同した。自分で仕事を辞めてきたんだ。

だけど、愛する仕事、……いや、愛する「仕事をしている自分」との決別は、予想以上につらい。

時々訪れる揺り戻しに心がなびいて、弱音を吐きたくなる時もある。
そんな時、あるひとの夫はこう言った。


自分で決めたんでしょ。


いや、そうなんだよ。自分で決めてやってきたんだ。わかっている。
だけど、なんだか、責められている気がして。

だって本人は、いまの状況から逃げたいとも、辞めたいとも言っていない。腹をくくって現状を受け入れようとしている、だけれども心がついていかないだけなのだ。

続ける、けどしんどい、わかってほしい、一緒に解決策を考えて欲しい。それだけなのに、「自分で決めたんでしょ」、そう言われると、見放されたようで絶望する。
「自分で決めたことなんだから、あなたの愚痴は聞きません、あなたの相談には乗りません」と宣告されたも同然だ。


「自分で決めたんでしょ」という台詞は、言ってはいけない。少なくとも、努力している他人には。


被害者の気持ちがわかると同時に、自分が加害者になっていやしないか考えを巡らせる。
子がぐずった時、わたしはそれを口に出していないか。やっぱり今日はやめにしたいと言う子に、「自分で決めたんでしょ!」と鬼の形相で答えてはいやしないか。

やめよう。子どもたちは、本気でぐずりたい訳ではない。ぐずっているその先で、彼らは、助けてほしいのだ。
嫌なものから逃れられない不快感、緊張という名の恐怖から救ってほしいだけなのに、「自分で決めたんでしょ」と、最も愛する者から突き放される絶望。

「自分で決めたんでしょ」という便利な言葉は、もう封印しよう。その代わり気持ちに共感して、どうしたらできるようになるか考えよう。

なだめる、励ます。一緒に考える。大人も子どもも、もしかしたら、求められているのはこれだけかもしれない。

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まみ┆元管理職、キャリアブレイク中
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