【読書】嫉妬心はあって当然なんだという話
「わたしは嫉妬なんてしない」と思い込んでいました。
なのに、日常のふとした瞬間にそれは沸き起こります。
「嫉妬じゃない、うらやましくなんかない、」
うらやましい、というのは、「そのひとになりたい」ということなのでは。
わたしは別にそのひとになりたい訳じゃない。だからこれは、嫉妬じゃない。
「嫉妬論」という本を読んだ
AmazonのAudibleで「嫉妬論」という本を読みました。
嫉妬に関する本は心理学者やセラピストによるものが多いなか、この本の著者である山本 圭さんは、政治学出身です。
たしかに言われてみれば、人を動かす政治と、人の心の奥底にある嫉妬という感情は切っても切れない仲にあるのも頷ける……。
さらに興味深いのは、この本では、政治だけではなく哲学の観点からも「嫉妬」というものの本質を探るアプロ―チを取っています。
博士号を取得する先生というものは、こんな「哲学」の中に膨大に散らばった文献を集め、読み込み、抽出し書籍として形に残せる人間のことを言うのか、と脱帽です…!
哲学や政治哲学を交えながら「嫉妬」というものを解きほぐしていく中で、最終的に、本書では「健全な民主主義には、嫉妬は不可欠」という結論を出しています。
なぜなら、民主主義は「平等」を目指すものですが、ひとは平等な状態に近づけば近づくほど、微小な差異に対して強い嫉妬を覚えてしまう生き物だからです。
であれば、嫉妬というものが誰しもにあるものだと仮定して、それとよく付き合っていこうじゃないかというわけです。
うらやましい=「あの人になりたい」?
この本を読むまでは、「嫉妬している自分」を受け入れることができていませんでした。
なぜなら、嫉妬と言うのは、あの人になりたいということだと思っていたからです。
これは以前、2022年のノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーの「嫉妬」を読んだときの以下の一節に影響されています。
すさまじい文章ですよね。なんてことない表情をしている個人の中にかくれて、嫉妬というものがどれほどまでに激しく燃えたぎっているか、その恐ろしさを伝えてくれる金言です。
この言葉にとらわれすぎたわたしは、他人のSNSを見て発生するモヤモヤを「これは嫉妬だ」と認識することができなかったのです。
わたしの中の嫉妬心
「嫉妬論」に話を戻しましょう。
この本の中で著者は「妬まれやすい人」について、フランシス・ベーコンの言葉を引用しています。
あああ~~~~~なるほど、とわたしは納得しました。
わたしと同じくらいのレベルの人(=平等だと思っている)が、
幸運の素晴らしさを見せつけている
ことに対して、モヤモヤしているんだ、と。
そして、このモヤモヤを「嫉妬」と呼んでもいいし、「わたしの美学と異なる」と呼んでもいい。
わたしは全く庶民で、大した人間ではありませんが、それでも自分のいまの立場がいくつもの幸運の上に成り立っていることを理解しているつもりです。
そして、いま不幸だと感じているひとがいるとして、それはもしかしたらわたしだったかもしれないという可能性の存在も認知しています。
だから、リアルの友人・知人(=自分の意志でフォロー・フォロー外しが難しい関係性)に自分の能力や生活レベルをことさら強調することはしません。
「なぜわたしだけがこんな目に」というつらい気持ちがわかるからです。
それがわかったら、自分の中の凝り固まった解釈が少しだけやわらかくなって、明け透けとSNSに投稿する人々に対する拒絶や、拒絶している自分への拒絶さえ、「あって当然のことだろう」と認められるようになりました。
嫉妬とは、悪者でもなく、蓋をして無視すべきものでもなく、人の心に備わっている感情のひとつ。
そうであれば、人の役に立つような力にしていこう。
いまは、このように捉えています。
ここまでじっくり「嫉妬とは?」に向き合えたのは、「嫉妬論」を読んだおかげです。
わたしの中の考えを変え、生きやすくしてくれた素晴らしい本でした。
みなさまも、ぜひ。
おまけ
思えばこの1年、嫉妬に関していくつも書いてきました。
「嫉妬」「心地よく生きる」「自分らしくある」「承認欲求」、このあたりはわたしのライフテーマになり得るなぁと思います。
🔽「自分らしくある」について
🔽承認欲求、嫉妬について
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