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日記4月24日 村上春樹作品の地下2階とは、ユングやシュターナーの「潜在的無意識」や「霊界」と近似のものだろうか?と思ったこと。

今朝の体重64.7kg、体脂肪率は13.7%であった。筋量が53.1kgであった。

この筋量が53キロから59キロあたりをいったりきたりしている。一番多いのは54.7kg位である。

体脂肪率が高いと一日イマイチ気分だが、そういう気分でいる、ということを俯瞰(第3者的視点で見る)といい気がしている。

これは日々瞬間的になんとなく嫌だなあ、と思うことに対しても効果的だ。

あれ、いまなんとなく嫌だと思ったな。

そう認識すると、認識せずにだらだらとその嫌な気分をひきづって過ごすよりいい時間を過ごせるのだ、

これは今後も行っていきたい。

小さな変化として。


さて、ノヴァーリスの「青い花」を拾い読みしている。

宇宙は、より大きい世界によって、次から次と包括されてく、はてしない世界に分かれている。あらゆる感覚は、結局はひとつの感覚で、このひとつの感覚がまるでひとつの世界のように、次第にあらゆる世界へと通じる。だがなにごとにも潮時と流儀がある。大宇宙としての人間だけが、小宇宙としてのわれわれの世界の関係を洞察することができる。
ノヴァーリス 青い花 青山隆夫訳 1989年 岩波文庫 P.274
良心は、真面目に完成されたものや、ついに達せられた真実の相なら、いずれにもあらわれる。熟慮の末に、世の評価を得るものにまで改良された趣向や技量なら、どれも良心のひとつの現象(あらわれ)であり、変容なのだ。あらゆる教育は、まさに自由と称されるものに帰着する。もちろんこの自由は、ただ単なる概念ではなく、あらゆる存在の創造的な基盤とみるべきだがね。
同P.275

普通人間はどれだけ大きく考えてもせいぜい「小宇宙」であると思うくらいだが、ノヴァーリスにいわせると、「人間が大宇宙」で「われわれの世界」が小宇宙である、とする。

この視点の変換が爽快だった。

夜郎自大、という言葉がある。いい意味ではない、卑小な自身を大きいものとしてひけらかす、といったようなニュアンスだろうか(個人のニュアンスです)。

下手をすれば誇大妄想ともいわれかねないノヴァーリスの言であるが、私個人としてはこれは実はそうではないか、という直感がある。

思考実験として、自身のいわゆる村上春樹の「地下2階」(これは地下1階が通常の感覚、肉体等から得る感覚をとおした反応のような表面的なものであるのに対し、その下のコア、世界に通じるドア、全てのうちの一部であり、そもそもすべてである、といったようなところ、ユングのいう潜在的無意識であり、シュターナーの言う「霊界」とも近いだろう)こそが人間を3つに分ける過去のキリスト教で異端とされた説と通じるものだ、と思っている。

そこから出てくる話にしか興味のない村上春樹作品を、読めるひとと読めないひとがいるようだ。

その多くは村上作品に出てくる「男性」の「女性を品定めするような思考形式」への拒否反応かもしれないと、と思っている。

これは奇妙なことに、本来登場人物の感覚であり、村上さんご自身の考えではないはずだが、「村上春樹はこう考える作家だ」という感覚で嫌うのだ。

いや、嫌ってはいけない、というつもりはない、むしろよくわかる。

男性としての私も、その部分を観じており、それがゆえに「この本は個人的に好きだ、とても好きだにとどめよう」と思うことが多いからだ。

その部分は多分女性に嫌悪感を抱かせるだろうなあ、という予感とともに。

ドライブ・マイ・カー、アカデミー賞受賞でも話題のこの作品の原作を、たまたま借りていた短編集で見つけて読んだのは最近のことだ。

とても味わい深く読んで、この作品は好きだな、と思ったのだ。

しかし同じ作品を読んだ女性から、上記のような「おっさん目線」を感じて嫌だった、という感想を聞いて、まあ、そうかもな、という感想を持った。

おっさんである私は、あの感情は親しくわかるわけだが、そう思っているおっさんはある一定の女性にはよく思われない。

まあ、そういう感じをもっていたが、明確にそういう意見をきいたので、なるほどなあ、という思いとともにここに記しておく。

(地下二階、素敵です。)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。