日記4月16日(金) #日記 自分さがし。
今朝の体重は、64.4kgであった。昨日は在宅勤務であったのだが、自宅であるがゆえのリスクは”つまみ食い”。昨日はなんとかチョコ2枚で我慢した。
空腹時には、コーヒーをがぶ飲みして、フリスクを食べると、とりあえずは抑えられるようだ。体重は減り気味であるが、体脂肪率は10.2%と体重の割には多めに出た。同じ体重計で測っているが、前日トレーニングしたかどうか、歩いたかどうかで体脂肪率の傾向は変わってくる。今日は筋肉量54.4kg。これがトレーニング後だと59kg位になるときがある。つまりは脂肪認定か筋肉認定かは、けっこう適当、ということだろう。遊びで一喜一憂しているが、本気で一喜一憂すべきものでもないだろう。
在宅勤務時には、普段使用しているノートパソコンを持って帰ることになる。出張用というよりは、デスクで使うためにモニターも大き目なので、これを持って帰るとなると10kg位はリュックが重くなる。
在宅勤務を始めたころは、これが結構重くて、リュックを背負って10000歩あるくと、途中で背中が痛くなったりした。信号待ちでは思わずリュックを下ろしたりもしたものだ。
だが何度か繰り返すうちに、いつしか当たり前になってきた。今ではパソコンが入っているほうが、しっくりくる(この重さがいいなあ、と感じる)位になってきた。昔右手を複雑骨折したとき(中学2年でした)、左手で通学カバンを持ち続けると、左手の筋力が明らかに上がったのを思いだした。それ以来、筋力については左右でいけば、左のほうがすこし強いまま、という感さえある。これは体力、筋力に限らないだろう。能力、脳力についても、いえるのだろう。
自分さがしについて。
我が敬愛する池田晶子さん(こればっかし)がいつもおっしゃっていたのは、”自分さがし”なんてやめてしまえ!であった(個人的理解)。
自分を探そう、という気持ち自体がいまいちなのだ。今の自分を、ダメで自分を変えたいとか、思ったとしても、そこで自分が自分でない、とおもいたいのであればダメですよ、と。そういう風に理解した。
自分は自分でしかない。もっというと、“全体”から”自分の分け前”の部分あけを、つまり“自”の”分”を、なぜかわけてもらって、みんなここにいるのである。
もともとは一つですよ、と
そこは明確にはおっしゃってなかったかもしれないのだが、たしかそんな考え方もあるよなあ、とコメントされていたようにも思う(白川静の稿であったか=漢字からの読解)。
なので絶望している場合ではないのである。あるがまま、青い鳥のチルチルとミチルが、探した果てにここに、この場に、いたのかと気づく青い鳥、それこそが”自分”。
まあ、そんな風に個人的には理解して生きている。
個であることは、人生の目的ではない。それがアメリカで暮らしているときに、僕がすごくはっきり認識できたことですね。
一人の個人として、自分が何をなし得るのか?それが僕にとっての大事な命題になった。
P.353 村上春樹 夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。
村上春樹氏がアメリカで実感されたという上記記述、これは冒頭の池田さんのご意見(の個人的理解)と地続きである、と思った。
個であること、というのは”自分さがし”の別の言い方だ。個であることの先に、個であることを前提になにをなすのか。
あらまほしき姿を勘違いしてはいけないよ、と、これは別に人に意見する形ではなくご自身の理解として、
伝えてくれているのだなあ、と、思った。
(村上氏はそこそこうまく行っていたジャズ飲み屋?を人に売って、退路を断ってアメリカに渡られたとのこと。その決意があって、いまの村上さんがあるんですね)