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日記1月12日。 #日記

先日会社帰りにスタバに寄った。

毎日できれば1万歩を歩きたいと思ってはいるが、なかなか会社との行きかえりだけでは届かない。昨日は思いついて、通勤途中の駅で降りて、そこから片道15分くらいあるくスタバへ行ったのだ。

名古屋駅近辺には、多くのスタバがある。この2-3年で3-4軒増えたイメージだ(サイゼリアは3軒ある)。それぞれの店舗で当然レイアウトや客の混み具合の違いがある。私はスタバでできればすこし下絵を描いたり、場合によっては銅版画作成なども行いたいので、なるべく集中でき、他の客との距離が取れ、明るめの席がある店が理想なのだ。

昨日行ったスタバは、数あるスタバの中で、そんな条件に近い席がある店舗だ。地上1階、大通りに面しており、駅からは気持ち遠い。道に面した店内席のガラス越しにはテラス席があり、当然この季節、客は座っていない。現在はコロナ対策で席は離れて設定されていた。普通はやはり尖ったニードルで一心に点描を打つおっさんは、気持ちがわるいだろう(立場が逆なら私も気持ちわるい)。

行ってみると、席と席の間には透明なボードが設置されていた。本当は、不透明なほうが気楽なのだが(店の景観上は透明がいいのはわかります)、幸い空いていたので横に人は来なかった。衆人環境下で絵を描く、というのは、やはり気を使うものである。

このスタバへの往復、さらに最寄り駅から一駅前におりて歩いてやっと1万歩くらいであった。一万歩は、思いのほか大変だ。

教科書の電子化について。

教科書をすべて電子化にするかどうかの議論があるようだ。

その議論の裏には、”人が自分の頭脳(記憶力)でものを覚えることの価値が暴落したこと”が理由としてあるだろう。

この数百年、個人が得ることのできる知識の内容と量には、その個人に特有の条件が強く影響し、その結果貴重な知識を持つことだけで、或る意味知の特権階級としてその提供をもって対価を得ることができた。

だが、最近よく言われるのは、知っていることと考えることが違う、ということだ。つまり”知っているだけで価値がある”時代が長く続いたことで、この本来は別々の事柄が、同じように考えられがちだ、ということだろう。

知っていることが貴重であった時代は、個人の知識の開陳伝授だけで価値があり、それを”一子相伝”的に受け継ぐことで後継者が同じく知識で対価を得てゆくことができた。だが、今はそうした知識、否、個人が過去に得たものよりアップデートされた知識がWEB上にあり、”知識を持つ必要はなく、正しく問う力さえあればよい”とも言われるようになった。

このことは、おおむね正しく、そういう意味では知的活動、といわれる分野で大きな変化があった、というべきだろう。

そして、その”偏在する知識に正しくアクセスし”、それをベースに諸問題を考えること、つまり”考えること”が人が知的活動として行うべき、唯一の正しい行為である、とされてきた。

そして、そのこともおおむね正しい。

しかしここで、気をつけなくてはならないことがある。

”正しくWEBから知識を得る能力を有し、無駄な知識で脳髄の容量を使用せず、その”脳髄残容量”を”正しく考えるために使用する”ためには、逆説的かもしれないが、基礎能力が必要だ、ということである。

コンピュータで例えれば、優秀なソフトが必要、ということだろうか。

なにを当たり前のことを、となるだろうか。いや、こうしたことを考える人々は、その前半生で、主に紙の教科書により、人間生活で言えば、”寝る、起きる、食事をする、運動をする”という基礎体力に相当する”基礎学力”というべき頭脳力を、すでに獲得し、使用している人々であるからである。

確かに、最新の知識はWEBから入手できる。わざわざ個人で覚える必要はない。しかしその知識を理解し、咀嚼し、自家薬籠中のものとして正しく考え出す為の、基本的な能力を鍛えること、これが学生時代の学習の目的ではないだろうか。

WEBでの知識は、広大で平坦だ。果たしてどれが重要で、どれが上級者向けであるのかが、わかりにくい。知の初心者、つまり幼児児童では五里霧中、さっぱりわからない、ということになるだろう。

そして、あきらめる人々がジワリと増えないか。

”持てるものは、持っていなかった時のことを簡単に忘れる。持たないものの立場や気持ちに、いじわるではなく、善意ながら想いが及ばない”。悪気がないところが厄介だ。

機械文明により、多くの単純労働者が仕事を失った。車夫や牛馬が、その存在価値を失った。代わりに、人々はサービス業や座って行う作業へと移った。自動運転で、タクシー運転手はいなくなる。介護ロボットの進歩(だいぶかかるだろうが)で介護される本人が、個別のロボットに乗って(乗せられて)、自らを介護することになる。要介護者だけではない。先はすべての人類がそうなる。映画マトリックスは、壮大な予言である。

同じくWEBにより、多くの”知識の蓄積と切り売りと出し惜しみ”で生活をしていた”意見の無い学者”は淘汰される。だが、機械が人を運んでくれるから、人はあるく力が要らなくなった、というわけではないように(むしろ健康のために、人はより歩く能力を高めることが望ましい=今は)、WEBにすべての知識があろうとも、それを使いこなす力はより洗練され、むしろ高められる必要がある。

そのことをしっかりと押さえ、基礎としての学力を高めるには、昔ながらの紙を使う教育のノウハウ、丹念な繰り返しによる知識を獲得する能力(知識それ自体よりは、それを得ることができるノウハウと体験)が、いまだ軽視されるべきではないだろう。

まずはそうしたことをしっかりと把握して、並走する、ということではないだろうか。

(漢字を覚えるのは苦痛でした。書けなくても、ほとんど読めたので。ですが今となっては、漢字を覚えようとしてよかったな、と思います)





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