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2月19日 龍樹、縁起。

(宇宙においては)何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものも常恒であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かれた別のものであることはなく、何ものも(われらに向かって)来ることもなく、(われらから)去ることもない、という縁起のことわりを、仏は説きたもうた。
龍樹 「中論」 冒頭「帰敬序」

境界がなく、広がることもなく、縮むこともないこの世界、そこにあるいは精神界も含めれば、とりあえずは“この世”ということを想定できるだろう。

なんとなくそういう広がりは、わかりそうでわからない。こうして仏の説きたもうたこととして龍樹に教えてもらわないと、なんというかピンとこないのはなぜだろうか。

一つは、そういう限界のない“全“というか、“一”というか、は実際に自分個人としてはうまく体感できそうもない、ということがあるのかもしれない。

まあ、見ることはできない。宇宙でさえ(!)、果てとその向こうをうまく考えることが出来ない。果て、とはもうその向こうがないことを言うとしても、ではその果ての向こうはなんですか、ということがどうにもこうにも考えられないのだ。

文字、というものの限界だろうか。もちろん“全“にはこの精神、あの精神、魂というものがあるとするならこの魂をも含む、ということになるので、魂ならあるいは、宇宙の果ての向こうを見てくることはできるかもしれないが、見ることができるのであれば、そこは“果てではない”ということになるだけなのだ。

ここで堂々巡りだ。このさきをうまく考えられないのだ。

だから、見る、や感じる、とは違う仕方で把握しなければならない。

それは多分、「考える」だろう。


何度も同じことばかり言っているのだが、池田晶子さんが「悩むな!考えろ!」と喝を下さった、あのことだ。


考える、は無敵だ、ともおっしゃっていた気がする。

水平に無限に広がり、垂直に無限に屹立する。


そこからはあるいは、この世や全を超えたものへと、向かうことができるのかもしれない。

(ちと無理ですかねー笑)


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