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mamezouya
2月4日 神とは評価するものであるのか。評価する神を持ちたいか。
武道修業の目標は「場を主宰する」ことである。柳生宗矩の『兵法家伝書』には「座を見る 機を見る」という言い方があるけれど、要するに「いるべき時に、いるべき処にいて、なすべきことをなす」ことである。いつどこにいて何をするのかについて、あらかじめ誰かが「正解」を知っていて、それに沿うように生きるということではない。正解はない。自分にとって最も自然で、最も合理的で、最も必然性のある生き方を過たず生きるということであり、それを決めるのは私である。誰かが「お前の生き方はそれで正しい」と永代保証してくれるということはないし、逆に誰かに「お前の生き方は間違っている」と言われてもおいそれと従うわけにはゆかない。
武道的な生き方というのは、誰かが作問した難問に答えて、その適否について誰かに点数をつけられるということではない。だから、人が「正解」を求めている限り、つまりどこかに「作問者」がいて、その人が「採点」をするという前提に場にある限り、私たちは「後手に回り」続け、永遠に「場を主宰する」ことができない。
3日連続で内田先生の文を引用した。
武道を30年教えた内田先生の教えの肝は、
自分自身の主と成れ
ということなのかもしれない。
自画自賛、不遜、自分勝手、変な奴。
共同体では目立つことは共同体の平和を乱し、危険を呼び込む可能性がある。
なので、「神」が想定され、規律を守らせるための方便、という面を、神は持つようになった。
だがそのことに無自覚に過ごすと、ことなかれ、というなの「無風=無意味」な人生を過ごすことになりかねない。
そのあたりに自覚的であれ、いつもあなたはあなた自身の主人であれ
それはことさら場をかき乱すことのみを指すわけではないだろう。
(なかなか考えさせられます。。)
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