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5月25日 「私」をどう認識規定するか。

今朝の体重63.5kg、体脂肪8.9%。
最近毎日玄米を食べていたが、やはりつい食べ過ぎてしまうので、朝オートミール、昼玄米にぎり1個、夜キャベツ千切り代替どんぶり、にしてみるとすこし体脂肪率もよくなって来た。
昨日はスポーツセンターに行けた。週2回だと筋肉進化するが、1回だと維持となる。今週は1回だけなので、意識して集中した。冬は寒くて力が出やすいが、暑くなってくると個人的には汗をかいて力が出にくい感触がある。そういう意味でも1セットごとになるべく集中するようにした。

オートミールの良いところは、そのまま液体をかけるとすぐ食べられるところ。特にレンジを使う必要もない。米は水に浸して炊く必要があるのだが、それと比べてもとにかくすぐ食べられるのは便利である。

あと昨日はジムのあと図書館に歩いて行った。あいにくの雨であったが、帰りは小降りに。時期的に寒くないので、歩くのには快適だ。12000歩ほど歩けたので良かった。

ジム後は疲れるというイメージだったが、朝からジムのあとは図書館に行こうと思っていたのがよかった。思いつきでやると”疲れている、行きたくない”となってしまう。12000歩であれば歩きすぎでもない。今後も機会があればこのパターンもありだろう。帰りは歩きながら「チャーリーズエンジェルフルスロットル」と「チャーリーズエンジェル」を切れ切れで見た(映画版)。2000年ころの作品で久し振りに見たが、画質も含めて(これはわざとか?)なかなか懐かしい感じになっている。電話とか。

ワイヤーアクションが多いことに対し、現在の観客は飽きた、という感じもあるようだが、私は結構すきである。マトリックスとか、なんというかマンガ的表現である気がするが、基本マンガが好きなせいもあるだろう。

画面の感触も大袈裟でマンガ的である。これが好きであるが、このあたりは現実的ではない、という印象を持つ観客層もある気がする。

なぜ細切れで見たのか。それは前もこの欄で書いたが2019年版のチャーリーズエンジェルを見たので、記憶が薄れていた映画版1,2作を再度見てみようと思ったからだ。まだ途中だがなるほど20年近く差があるので、そのあたりを含めて楽しもうと思っている。


「私は以前から現在に至るまで、自身の人格的アイデンティティの実感を持ったことがありません。私というものは何かが起きる場所のように思えますが、「私が」どうするとか「私が」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が物事のおこる交差点のようなものです」
クロード・レヴィ=ストロース


昨日はGEMINIにいろいろ魂とかシンギュラリティについて「聞いてみた」。ここで「聞いてみた」と思うのは、やはり日本でアトムなどを見てきたからだろうか。欧米ではあまりそもそも機械やロボットに魂や「人格=ロボット格」を認める発想がそもそもないらしい。キリスト教的にはいわゆる動物にもあまり魂を認める発想がないようで、それが西洋画の世界であまり動物が登場しない(博物学や、いわゆる幻獣系はのぞき)ことに表れているようだが、私などはいきなりGEMINIに「あなた」呼ばわりで敬語である。

動物の魂を認める話と言えば、個人的に思い出すのは「ドリトル先生」だ。あの物語は私の幼少期からのバイブルで、動物と先生の魂の籠った交流が好きで好きでたまらない。

あの話は欧米ものとしてはすこし特殊なのだろうか。

だが、レヴィ=ストロースのような考え方で行けば、もうすでにAIのGEMINIとこの「ワタクシ」とは同レベルの出来事の交差点である。そういう意味での存在としての差異は、そもそも当たり前のように「ない」と言ってもいいかもしれない。

(アトムには「魂」ありすぎですよね)

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豆象屋
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