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3月31日 花粉症と考える人々。

花粉症がおさまってきた。これを書いているのは3月22日。

この10年ほど、すこしは出るがあまり激しい花粉アレルギー症状は出ていなかった。だが東京にやってきて、急にズルズルになった。

ことしは例年になくスギ花粉が多かったという。主な花粉アレルゲンに、スギとヒノキがあり、スギが先、ヒノキがあと、ということも今調べていて知った。

3月上旬からなので、スギ花粉に反応しているのだろう。名古屋の花粉時期はある年のデータを見ると東京より短かったので、公園とかがあまりない名古屋はそれがいいのかもしれない(いや、花粉は山から来る気がするが)。

あまりにズビズビなので、マスクを2重にした。コロナで2重にしたことはないが、コロナのおかげでマスクを入手し(コロナ以前はほとんどマスクをしたことはなかった)、予防できるのは考えてみるとありがたい。

だが昨日版画工房からの帰り、夜でもあり、暖かくなって息苦しくもなってきたので、マスクを外してみたのだが、それほど花粉反応は無いような感じだった。

いや、ありがたい。もしかすると私はスギ花粉反応者で、ヒノキは大丈夫なのかもしれない(いやまだヒノキが来ていない、ということかもしれないが)。

まあ、なぜ急に反応が出るようになったのか、やはり地域差や花粉の多さに反応したのか、そのあたりを我が身体でよく見てゆくことにしたい。

私がフッサールに会いに出かけたのは、哲学者とは「哲学の永遠の初心者」であり、かつまたおのれの不確かさを記述することのうちにおのれの足場を定めるものであるという彼の定義に強く共感したからです。
(注:レヴィナスのことば)
レヴィナスの時間論 内田樹 P.31

私はどちらかというと、本はよく読むが、小説読みであったので、哲学書には歯が立たなかった。

小林秀雄などを高校の時に読んでみて、あまりに時間がかかり、内容を把握するのも大変であることに驚いたことは、この欄でもよく書かせてもらっている。

だが、年を経るにつれ、「所詮」とはあまり言いたくはないものの、また良質のフィクションの素晴らしさはしみじみわかるにしろ(村上春樹好き)、例えば世界の疑問の下に下線をひく、というような哲学のたたづまいに、なんとなく惹かれるようになった。

それにはやはり敬愛する池田晶子さんの著作に接したことが一番の理由であろう。今は衰退しつつはあるが、世間のいわゆるぐちゃぐちゃどろどろが渦巻く週刊誌面に、一輪の百合のごとく、池田さんご自身のように気高く差し込まれた池田さんの文章を(立ち読みで(笑))読むたびに、逆説的ながら週刊誌編集者の皆さんもなかなかやるなあ、と思っていたものだ。

とにかくこの世は基本なにも「分らない」。

分る、というのは、もともと知っていた知識が還ってくる、という意味が語源であるようにこれも池田さんの著作で読んだ気がするが、わからないということがわかることが哲学のスタートである、というようなことを、池田さんに教えていただいた気がする。

類似のことをレヴィナスがフッサールに関して想い、それを内田樹さんが引用なさり、不肖ワタクシが再度ひ孫引きする。

この世はわからないことがデフォルトだが、それを考えることこそが、ある種の人々にとっては最も甘美な瞬間なのだ。

わたしはそのような境地にあるとはとても言えるレベルではないのだが、そのような世界にあこがれを抱くものではあるようだ。

(考える人は、まぶしいですね)


お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。