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9月6日 プロの書き手はプロの読み手。近藤康太郎氏の「百冊で耕す」は大変読み応えがあった。

今朝の体重63.9KG、体脂肪10.2%。ちょっとうろ覚え。。

筋肉をしっかりキープして、体重63キロを目指すぐらいが一番いい気がする。
そして肉体とは数か月まえの食事の結果。とすれば下っ腹がブヨついているのはやはり玄米を食べすぎた所為であろうか。

その前の数年はほとんど米類を食べていなかった(ゼロではない)。だがこの冬は妙に空腹だったのと、炭水化物を食べないと脳が委縮する可能性あり(=痴呆症リスク)との記事を読んで玄米をひと月に10KG位食べていた。

まあ、それは悪くはないのだろうが、下っ腹の状態がイマイチなのだ。
私は下っ腹がブヨつくのが嫌いなのだが、ここに肉は付きやすい。肉というか脂肪だろう。

もちろん鍛えもいいが、やはり何を食べるかである。

健康を失うのが一番ダメだが、体の状態がイマイチと感じて過ごすのもイマイチだ。ということで、最近は玄米を減らしている。まあ、夏で食欲が落ちはしないが、上がるわけでもない。

バナナやきな粉で炭水化物がとれる気もするので、当面はその方向でやってゆきたい。
あと、玄米の代わりに素焼きアーモンドを一日最大60粒食べているが、こちらも結構カロリーはあるだろう。きな粉はどうやら炭水化物は少な目のようだが。。

バナナは今まで1日1本であったが、これを2本に増やしてもいいかもしれない。
朝と晩。

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昨日は、日比谷図書館に自転車で行った。歩くと最近はあまりに暑いので、自転車にしたのだ。行きはよくても、帰りはちょっとエネルギー不足になる気がしたのだ。

というのも、持参する荷物が重いのだ。荷物がないなら問題ないが、去年重い荷物を持って皇居あたりを歩いたら、熱中症になったのだ。

何故重いのか。銅版画の転写を図書館でやってしまえ、という極私的ミッションの所為だ。
で、銅板は重い。いまとりかかっている作品が大き目であることも理由の一つだ。

勉強も創作も、家で普通にやれればいい。しかし家は食事の場。洗濯などもある。料理というほどの料理はしないが、最低味噌汁を作っている。キャベツを切って、煮ている。卵ときな粉と納豆を混ぜている。時間は短いにしろ、一応小さな備え付けのキッチンに立つわけだ。

買い物は最近ほとんど固定化できた気がする。だいたいが3か所でそろう。まいばすけっとx2,100円ローソンx1である。

買うものが決まってはいるが、例えば同じまいばすけっとでも、最寄りの店では石鹸を売っていない。版画工房よりの店は、高野豆腐がない。ちょっとした差異があるのだ。

行っている100円ローソンは、多分農家契約の野菜がローソン日配とは別に入荷しており、キャベツが100円で買えるときが多い。これはありがたい。卵も1個20円で微妙に安いのだ(まいばすけっととは数十円の差ですが)。だがバナナはまいばすけっとのほうが安い。

こうした差異を把握しつつ、日々の食材を買っている。

話がそれたが、そうしてちょっとした料理っぽいことをして、食べて、休憩していると、そこから創作したり、鍛えたり、というモードになかなか切り替えられないのだ。

画家が家とは別にアトリエを持つ気もちがよくわかる。
また、それとは別に、他人の気配がある場所での作業というのは、微妙な緊張感があっていいのだ。

本も読めるし、絵も描ける(ちょっと気を遣うが)。。

ということで、いつもは本を読むだけだが、本+描画の為に図書館にいったのだ。

結果的に6時間居た。朝10時半から4時半まで。
2時間ごとに更新。電源付きで後ろには本の山。なんとも贅沢な空間で、しかも無料。

これは素晴らしい。横をみると同じく6時間滞在の人々多数。結構定年後10年は過ぎたか、と思われる風貌の男性陣が多い。ここは天国だろうか。

結局6時間中、1時間は描画、4時間半は読書、30分はうとうと、という感じだった。最近昼食はプロテインとナッツだが、昼は食べなかった。これも楽。

で、読破したのがこちら、近藤康太郎氏の”百冊で耕す”である。

百冊で耕す〈自由に、なる〉ための読書術
作者:近藤 康太郎
CCCメディアハウス

これも読んでみたい。
三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾
作者:近藤 康太郎
CCCメディアハウス


1963生まれの現役朝日新聞記者の方である。蔵書は1万冊、いわばプロの書き手である。
で本を読んで思った。

プロの書き手とは、当然ながらプロの読み手である、と。

ライター、という職業があることは頭では理解しているが、作家と明確な差を把握できていない。まあ、単著がない、あるいはあっても雑誌などへの寄稿がメインで、それがまとまった、という傾向が強いのがライターというイメージ。

勝手なイメージながら、ゴーストライターという言葉が示すとおり、テーマを自身よりは与えられて書く傾向が強いのだろうと思っている。
作家は書くことのテーマの提案を受けることがあっても、基本自身で書き始める傾向が強いイメージだ。

だが、そういうライターをされている方こそが、真に読まれる文章を生み出される。
そしてそのためのインプットとしての読書がなされるのだ、とこの本を読んで思った。

凄みが、違うのだ。

読書とは、問いを、自分で言葉にできるようにする、
遠回りの、しかし確実なトレーニングだ。

問いは在るのではない。、答えは、探すものではない。
問いも、答えも、自分が創るものだ。
それを可能にするのは、読書だけだ。

P.93 百冊で耕す 近藤康太郎

読書を、上記のような意思と動機で実施されている方のノウハウ、これは真似するしかない、と思った。

まずは読むべきものを網羅したガイド、あるいは情報が欲しい。

私は世界のも、日本のも、”読むべき”といわれるものを意識してしらみつぶしてきたことはない。
なんとなく”うーん、これは世界の名作古典と言われているなあ”と思いながら読むことがある程度だ。
無理やり網羅的に読もうと思ってこなかった。なかなかとっつきにくいものも多いし、基本本や漫画をよく読むので、とっつきにくいと避けてしまうことが多かった。

だが、いい加減ちょっと意識するかなあ、という気が芽生えた。
生涯で100冊読めばいい、という本ではない。何万と(少なくとも1万冊は)読んだうちから厳選した100冊を持て、という本なのである。

自分の中で、この本を読んでよかった、また読むかどうかはわからないが、本棚に置いておこう、また読むことがある気がする、という本を本棚に並べてきた。

だが電子書籍という存在が出来、ミニマリスト、中古市場、オークションなどといった状況から、本をあまり持たないほうがいいのでは、という気分になっていたのだ。

それで、今古本の一等地一番目というべき(言い方変??)神保町に住みながら、イマイチ古本探求に集中できていなかったのだ。

だが、それでいいのか。

勿論金はないが、それを理由にするのは、自分に対する怠惰ではないのか。


残念ながら早晩古本屋文化は崩壊するだろう。じわりと、電子書籍しか読んだことなし、という人が多くなれば、商売は少なくとも縮小する。そして消滅に近くなるだろう。

神保町はそれでも最後まで残るだろうが、地方都市では無理だろう。
本当に残念なことだが。。。


であれば、例えば古本好きの先達が愛蔵したあと放出頂いた、古き岩波文庫を、新しめの講談社文芸文庫を、いまここで探す手間と金を惜しんでどうするのか!!

もう2度と”私の人生では”読めないかもしれないのだ。

いや、電子があるでしょ。

そういう声も脳内で聞こえる。
だが、なぜか、多分電子ではよまない気がする。


いつでも読めるとおもうことは、一生読まないということと、
非常に近しいのだ。

とりあえず、今日はこれくらいにしておこう。
また、この本の影響は別の日に語ることになるかもしれない。

(とりあえず推奨されていたアルクの英単語3を注文して見ました(全4冊)。ちょっと歯が立たないかもですが、今のままでは1冊も英文書を読まずに死んでしまいそうですので。。→今まで1冊も読破したことなし)

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豆象屋
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