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7月17日 池田晶子さんの「ない神」についてと魂のバトン。

信仰をもたない私は、こんなこの世に在ってしまったそのことだけで、潰えかかる夜がある。神はなぜと私は問いたい、しかし答えがあるくらいなら誰が問いなどするだろう。魂の高貴さ、人はなぜこの魅惑的な言葉の響きを忘れることさえできるのか。愚劣だ、私はない神を見上げる。するとそこにプラトン、星のように高く光るあれら人類の哲学者たち。そして睥睨するヘーゲルなど。
 精神を、さらにさらに高く精神性を掲げよ。やがてそれは滔々と立ち上がる光の柱、高貴な魂たちの勝利と祝祭、そのとき雄々しい知性が断固として君臨するのを、私は見る。神であってもなくてもどっちでもいい、しかしそれは確かなことだ、なぜならそこには歓びの感情ー。

池田晶子 『井筒俊彦著作集』第6巻付録、中央公論社、1992年10月

このあと池田さんは、「私たちの知性は、その高潔さによって、あんなにも遠く高く行けるものであることを、私は井筒氏に教わったような気がするのです」と書かれる。

私はぼんやりした頭で、初めて池田さんの「41歳からの哲学」を図書館の棚から引き出した時のことを想う。

なんというか、ぼんやりした図ではあるが、図書館の棚であったり、そこから本を取り出す「私」の姿を、もう一人の私が斜め上の中空から見ているような気がするのだ。

勿論、時間差のある幽体離脱などではない(笑)。だがあまりにも印象にのこる、いや「あそこであれがなかったら」と思うような出来事は、なんというか客観的に脳内で再現される感じがする。

それは確か週刊誌に連載されている池田さんの哲学エッセイの何番めかのまとめ本である。池田さんの名前をなんとなく新聞で見ており、その時は未見であったが「14歳からの哲学」がベストセラーになっている、ということをぼんやりと把握していたので、図書館で14歳の反対の41歳か、と面白く感じて手に取ったのであった。ただそれだけ。試しに。


出会ってしまった。


これが感想である。

それからはむさぼるように、手に入る池田さんの御本をすべて入手した。特に初期本はどちらかというと読むのが困難(哲学本は読んだことがない)ではあったが、いつかは読みたい、と感じられてその思いも楽しかった。池田さん自らが廃版になさった本も手に入れた。

1992年の文章だ。池田さんは1960年生まれでらっしゃるから、32歳のころだろうか。

池田さんを読んでたまらないのはその魂の求める高さへの希求だ。わが愚鈍なる魂さえ、池田さんの屹立する魂を仰ぎ見ていれば、すこしは一緒に高みを感じることができるのではないか。

その思いが、「池田本」を私にして読ませるのだ。

今回、ムック「井筒俊彦ざんまい」を図書館で借りて、この箇所を読んだとき、池田さんもまたご自身の魂の飛躍と屹立の助走を、例えばプラトン、例えば睥睨するヘーゲル、そして例えばこの井筒俊彦氏に助けてもらって実現したのだ、ということを感じる。

魂のリレー、という言い方がある。バトンを渡す走者が世界記録保持者のような池田さんで、受け取る私はよちよち歩きの1歳児であろうとも、受け取るべきバトンはある。

願わくば一歳児の手のひらで、一瞬だけでも保持できんことを。

(魂のバトン。久しぶりにこの言葉を思い出しました)


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豆象屋
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