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日記7月10日(土)。 #日記  キャロルとアリスと村上春樹。


乗代雄介氏の小説、「旅する練習」を読んだ。

乗代氏の小説は、結構好きで、今までに多分大体読んでいると思う。デビュー作の「十八、九まで」は、既に絶版であるが、中古ですこしプレミア価格であったが購入した。

どこが、好きなのだろう。まあ、読んでみて気に入った、としか言えないのであるが、饒舌な書籍引用と、基本的に家族、あるいは親族の濃密な関係性から設定された登場人物に、個人的には思い入れがしやすい、というあたりだろうか。

ここしばらくは、小説から遠ざかっていた。もともと結構読んでおり、高校時代は一日2冊くらい、読んでいた気がする。やはり会社勤めであればなかなか読むことが出来ない。どちらかというと、一篇が短いエッセイのようなものが、読みはじめの心理ハードルが低いようだ。

もう一つ、池田晶子さんの本を読んで、衝撃を受けたこともあるだろう。池田さんの本に示される東西様々な古典にも(少しだけ)手を伸ばした。そこで教えて頂いた、ソクラテスや鈴木大拙、といったそれまであまり手にとらなかった、歯ごたえのある著作群を、ちょこちょこと読むようにもなった。

小説が嫌いになったわけではないが、それらの書物の歯ごたえに加え、もちろんマンガも読みまくっている。時間が、なかった。そんな感じだろうか。

基本的に、映画も、マンガも、小説も、ストーリーを違った表現で表すものだ。つまり、すべてはストーリー、なのだ。ストーリーには、筋書きがない、コンセプチュアルなものも、含むのだが。

なので、良質なストーリー(コンテンツと言った方がいいか)であるのかどうか、本質はそれだけだ。

乗代さんの作品は、私にとって、そういう「良質なコンテンツ」である、ということだ。コンテンツ、というとどうやら私にとっては”消費されるもの”というドクサ的ニュアンンスがあるようだ。できれば”いい話”位で表現するのが、いいかもしれない。

まだ、読んでいない方の為、ストーリー詳細の記載は避けるが、この話を昨日読み終わって、今朝風呂に入っていると(朝風呂派なんです)、これは少女の物語で、最近同じく少女の物語を読んでいるぞ、という思いがやってきた。

乗代作品での、主人公は小説家の男性とその姪、亜美(アビ)、中学校入学を控えた、小学6年生だ。であれば12歳か。亜美は主人公男性の姉の子で、亜美は男性を”にーちゃん”と呼んでいる。

ほぼ同時期に読んでいたのが村上春樹の”騎士団長殺し”だ。この本では過去現在未来、3人の主人公にとって、”触れられない疑似の娘”が登場する。12歳で亡くなった妹、ひょんなことで、モデルとなった中学1年生の絵画教室の生徒で絵のモデルでもある少女、そして離婚協議中に懐妊した妻の”夢魔である私”の子である幼い娘。

すべてが明確な”娘”ではない、他人ではあり切れないような少女である。主人公のこの距離感、いわば”みゆき”のみゆきとの距離感と同類の、距離感である。

そしてさらにこれと同じ距離感をも、思い出した。そう、私がインスピレーション源としている、ドジスン教授の”アリス・リデル”だ。いわばこの”ふれてはならない、ふれきれない”微妙な関係、これはどちらかというと外的ではなく自身の自己規制として心から発生する"自制”、というものであるだろう。

そうした関係(みゆき、も含んでいいだろう”は、もじもじした、にえきらない、そして読者の秘めた、熱烈な共感を呼ぶ(男性限定)ものであり、それがゆえにこうした作品へと昇華し、こうして私に到達するのだろう。

そうした関係は、時間限定で、刹那的な永遠性を持ち、聖的でもある。その関係のただなかにあっても、どこか、そして大変に危うく、常に終焉の予感がある。その切なさが実は、その関係の本質であり、肝でもあるのだ。

その関係は、変化し、時には喪失をともない、劣化、と見える場合もある。それは主人公に、時に絶望、ときに渇望、ときに希望をもたらす。それが、時に大マンガとして、大ヒット小説として、歴史的幻想譚として、この世に爪痕を残す。

乗代氏作品は、そうした系譜につらなるものだろう。それも極めて純粋で魅力的な。

(よいものを、読ませていただきました)











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豆象屋
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