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日記1月15日。 #日記

昨日は12188歩歩いた。

1万歩をこえるとなんだかほっとする。しかし相当早足であるいた所為か股関節が痛い。運動量と疲労と筋肉と肉体劣化はバーターの関係にあるのかもしれない。

森博嗣、”つんつんブラザーズ”を読んでいる。

P.104より

なかには、自分はそこそこ満足でも、相手がより大きな満足を味わっている場合に、相対的に自分が損した、と感じる人がいる。これは、困った問題だ。そのようにして、他者と比較ばかりして、自分を貶めているような具合だから、常日頃から腹の立てっぱなしになるのも頷ける。

他者との比較、がこの日本の学校教育では、比較的問題視されていないどころか、場合によっては”手っ取り早く、担当するクラスの集団的な成果出し(この場合の成果、というものが本当に”成果”という名に値するのかどうかは、別途考える要ありだが=教師にとっての成果で、生徒個人の成果には必ずしもなっていない場合がある。生徒による個人差)に役立つ手法、考え方”として安易に採用されている気がする。

つまりは、”みんなとおんなじようにしとけ”である。

思いだしてみると、幼少時、なにか欲しいものがあったとき、”みんながもっとるから買うてー”といったところ、母親に”みんながもってるから、という理由では買わない”と言われた。

そのときは”なんでー(泣)”と思ったものだが、今になってみると貴重な気づきを貰ったものだと思う。やはり親の一言は、重みがある。

つまりは、集団生活では、人が持っていればそれを欲しがって買ってもらうことは善、という学びがあったのだが、その学びをひっくりかえされたのだ。

そしてくやしいし、買ってもらえないのだが、そのことが正しいことは子供心にもなんとなくわかる。

親にとってはなにげない一言でも、そのことが人生で初めての喫緊の問題や関心事になっている子供心には、その解(の一つ)として深く心に残る。

そんなことを、少し懐かしい感じと共に、思っている。

で、森さんの文だが、他人の幸福は毒の味、というのは他人の不幸は蜜の味、の反対語?になるのかもしれない。

残念な、人間のデフォルト心理、かもしれない。

このあたりは、DNA、あるいは進化の仕組みからくる生物としての原始的な心理でもあるだろう。自己の利益を他人より高め続けることで、個体としての自己を単純な’”強い、種族保存に役立つ個体”化したい、という。だがそのことは今の人間社会では、自分勝手で場合によっては残念な(ダメな)個体、と他者に判断されてしまうリスクがある。

比較、というものの成り立ちとリスクを良く知り、安易にそこに落ち込まないように留意して日々生活する必要が、

あると思う。

(しかし比較の取り込み力は狡猾で執拗で強力です。わたしも日々落ち込んでいます(泣))




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豆象屋
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