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4月6日 他人が自分を承認している、という感覚と、自分が自分を承認している、という感覚は違うのか、一緒なのか。重なるのであればどの部分か。


今までの経験上、他人が自分を承認してくれている、という感覚が結構幸福につながっているということを思う。

だがそれが過ぎると、「自己承認希求おばけ」になり、身を切って表面的な安易な他人による承認を求めることになる。それが嘘であろうとも。

インスタ、などが危険な例だろう。

では、自分が自分を承認する、ということはどうだろうか。

自分が自分を見るときには、自分調べで行けばその承認ハードルはゆがみがちで甘くなりがちだ。

これが厳しいひとがいわゆる「自分に厳しい」人、ということになろう。

私の一つの理想の生活態度は、「人に甘く、自分に厳しい」だが、実際の私は「人に甘く、自分には超甘い」になっている。

今の私の考えでは、「自分をある程度客観的に見ることができるように自身を鍛錬し、時にはさまざまな他所の評価を(できるだけ確実なものがよい)取り込みつつ、最終的には「これはある程度客観性のある」自己判断だな、と思ってあくまで自分で自分自身を評価すること、こそが目指すべきところではないだろうか、ということだ。

どこまで行っても自己満足だし、そもそも自己満足、という言葉にはドクサ(臆見)として「それはよくないもの」という意味が燻着している気がするが、そういうものから離れた純粋な意味での「自己満足」しか、自分の心しかわからないこの人生では、求められないような、気がしている。

(思考が右往左往してますが)

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豆象屋
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