存在と存在者。
コロナだ。
ひねもす家に居ると、うつうつとしてくる。
何のために生きてるの?と自問することともなろう。
このようにエックハルトにとって「存在」は、我々にとってのように、この上なく空虚なものではなくして、測れないほど豊かなものであり、「自らによって豊か」(dives per se)である。
「存在する」ものになる人は、そもそも存在の充溢の豊かさに踏み込むのである。
R.オットー 西と東の神秘主義 エックハルトとシャンカラ
1993年 人文書院刊 P.46
オットーは言う。エックハルトの認識は、存在は”我々にとってのように、この上なく空虚なものではなくして”。
そう、やはり太古から、古代から、中世から現代まで、”人は結局生を無意味なものとして見切らざるを得ない”。
そしてそのことに、深く絶望する。例えば、ここ、令和コロナの時の中でも、より身近に、日々、”無意味な生を実感する”。日々の忙しさのなかで、その無意味性を、知らないこと、無いことにすることが難しい。
実感、詠嘆し、悲嘆に落ち込む。
無意味な生を実感する、そして。
それは、とてもしんどい。
それは、逃れたい境地でもある。
だからして、逆に好機、となる。
そも、存在するとはなにか。存在者とはなにか、という問いへの没入への。
我々は「存在者」(Wesen)を、それ自身においてあるような、裸で純粋な存在として把握する。その時には(まさしくその純粋な存在性のもとにある時には)存在者は認識や生よりも高い。なぜなら存在者が存在者であることによってこそ、それが認識や生を持つからである。
前掲書 P.47
そう!
”存在者は認識や生よりも高い”のである!!
生が無意味だ=認識
生の中に、生きるものとして在る。=生
この牢獄的自然自己意識を、改めて意識せねばならない。
牢獄、流刑地、エデンからの追放者たる我々が、エデンに帰還することができるのは、このあたりが実はキイワードなのではないだろうか。
我々は、存在する。存在=無意味、牢獄、生老病死、と思っていますよね。
でも、本当にそうでしょうか?
というなんというか、考え。気づき。
生老病死の先にあるもの。
この日本という国にいると、「空気」がある。
山本七平は『「空気」の研究』(文春文庫)で空気をこう規定する。
非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として(中略)社会的に葬るほどの力をもつ超能力
コロナによりこうした空気を皮一枚の身近に感じるようになった。これはたとえば学生時代の恐怖、”いついじめにあうかもしれない”という恐怖と地続きだ。
社会の中で孤立し、見えない恫喝が日々襲い来ることに怯え続ける恐怖。魔女でもないのに単に仲たがいした隣人の密告により魔女として捕らえられ拷問にさらされ粛清処刑される”魔女狩りの恐怖”。コロナの濃厚接触者になることは日々腐った血を垂れ流し続けるスティグマを、決して消えることのないスティグマを、己の皮膚に刻まれることだ。
そう、ベルセルクの、ガッツの刻印のように。
感染可能性がもたらす、社会的抹殺、風評による個人の尊厳の抹殺。
ではどうすればいいのか
いわゆる行政に頼ればいいのか。
ここで池田謙一氏(同志社大教授)は述べる。
日本人には、統治者は危機にまともに対応できないだろうと考える「統治の不安」がある、
と。
確かに、自らの内に、今までの生活の中で得た感覚として、それがある。
どうせ、言っても、無駄だろう、という。
どうせ失望するのなら、そもそも期待しないようにする、という。
罹れば、風評は来る。行政は無力だ。
であれば、祈るしかない。身をすくめ、嵐が通り過ぎることを、ただ震えて祈る。
そんな日々だ。
魂が神を被造物のうちで認識する時は「夕日」である。
魂が被造物を神のうちで認識する時は「朝日」である。
しかるに、魂が神をただ存在者に過ぎないものとして知る時は白日である。
それゆえに人はこの白日を、あたかも狂える情熱のもとでのごとくに熱望すべきであり、存在者がかくも高貴であることを観照すべきである。
R.オットー 前掲書 P.47
そんな日々を過ごす分割されたという認識にとらわれた一であるわれわれ/
私の魂は、日々を、この世界を、神を、全を、どう認識すべきであるのか。
一生消えることのないスティグマの燃え盛る震える刻印を、目の前に、すぐそばに、じりじりと近づけられて恐怖に慄いている今。
だが、そういう時だから。
考えずにはいられないから。
もしかすると魂は、深く、感じだすことができるのかもしれない。
いま、ここで、”この世にある”、という感覚。
慄きつつであるのかもしれないが。
だが、ある。恐怖と共に。
生、とは
なにか。
そして、そこにはもしかして、存在の計り知れない豊さ、充溢する豊かさ、さえも、
あるのかもしれない。