仏教の”空”は、相対的次元の話ではない。
仏教でいう”空”とは
仏教の”空”は、相対的次元の話ではない。
と、鈴木大拙は説く。
”それは主観・客観、生・死、神・世界、有・無、イエス・ノー、肯定・否定など、あらゆる形の関係を超越した絶対空である。
仏教の空性の中には時間も、空間も、生成も、ものの実体性もすべてない。
それらはこれらすべてのものを可能ならしめるものである。
それは無限の可能性に満たされた零であり、また、無尽蔵の内容をもつ空虚である。”
P.53 鈴木大拙 神秘主義(岩波文庫)
”あらためて訊かれると、「知らぬ」というより他ないが、訊かれもしない時は知っているのだ。”
と、聖アウグスチヌスも云っている。
言葉は、時間とともに、人間が発明したものであるという。
発明、というが、意識したものでもなく、自然発生的に”そのほうがいいもの”ということで生まれたのであろう。
時間、という概念を眼前にすると、それを知った人間は知らない前の人間には戻れない。
それは”進化的退行”というものかもしれない。
その退行性、パンドラの箱性(行けば戻れぬ)を指して、あるいは過去の叡智は
”失楽園”、つまりエデンからの追放、”有限の命”という考えの虜囚、ということを
伝えたように思う。
言葉もそうだ。ほとんどすべてのモノを、表現できる、と思われている(誰に?)。
それを書き言葉とすれば、”行間”をさえ、読むことができる。
書かれていないものを、読むとは。
そしてウィトゲンシュタインの言った、”語りえないものについては沈黙せよ”。
これはすべてのものが言葉で表現できると、つい、普通、思ってしまうことへの気づきだ。
気づかせ、ではない、気づき、だろう。
時間により、有限なる命が生まれ、
言葉により、万能感を持つ限定人が生まれる。
さて、そのような次元に忽然と浮かび上がるのが、例えば”空”。
例えばというのは、同じものを別表現できるからだ。
一。道。全。神。
同じ、というが、同じという次元にはないものたち。
これが端的に言葉のゆきどまりを示している。
のではあるが、それはさておき。
空、である。それは虚無の“虚”をとった無、に近しい。
虚無を恐れる西洋の精神に、空、という考え方はどのように思われたろうか。
マイスター・エックハルトは言う。
”時、身体、そして多様性を越える時、われわれは神に到達するのである。”
P.101 鈴木大拙 神秘主義
聖アウグスチヌスは言う。
”換言すれば、現在が存在しなくなるという差し迫った状態によることなしに、われわれは時が存在するなどということをまともに言うことはできないのである。”
P.106 鈴木大拙 神秘主義
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そして言葉とは
さて、大拙の幼少時からの盟友、西田幾多郎の言葉にこんなものがあった。
西田は弟子に「これがよくもあしくも『私の生命の書だ』と云って神の前に出すものをおかきなさい」ということも言っています。
P.52 浅見洋 致知 2020.8号
師匠は、弟子に、技術はもちろんだがその前に、心や心構えを教えることになる。
目の前にいる弟子のみではなく、あるいはその弟子を通じて、我々のまえにも、師匠として眼前する。
私の生命の書。
池田晶子さんはおっしゃった。”すべての言葉が絶筆です”。
常に生死を賭して生きること。そのすごみを西田や池田さんから教えてもらう。
だが、それは青年期、の中にあるものは除外される。
吉本隆明は若い小林秀雄の苦難を、自らが編んだ選集の解説にて
我がことの如く感じてこう評した。
誰にとっても青年期は奇怪な観念である。
小林秀雄集解説 1977年
青年は、”生命の書”を”死を賭して”神の前に示すことを、あるいは暫時、猶予されるのかもしれない。
暫時?時?時間???
猶予はされない。
されないが、されたと時間のない今という永遠で思い、”その代り”努力することに、
なるのである。