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日記2月18日。 #日記

今朝の最低気温はマイナス1度。朝5時過ぎに外へ出ると薄っすらと雪が積もっている。部屋の温度も現在9度と10度に満たない。12度位が一番頭がすっきりする感じなのだが(ただし服は着ぶくれ状態)。

雪が降るくらいの寒さであるが、1月に感じたような底冷え感が無いように思う。温度は同じくらいなのになぜだろうか、と考えて、これはもしかして建物の冷え度合いの違いかもしれない、と思った。

例えば正月休み明けの会社に行くと、暖房をしても寒さが厳しい。2階で勤務しているが、床から冷気が上がってくる感じがある。同じ様に家も気温で冷えていれば、部屋全体から冷気が押し寄せてくるのではないだろうか。

昨日今日と寒いのだが、先週末は大変暖かく、或る日の最高気温は17度であったという。これで建物が暖まっているのではないだろうか。

ベッドで寝ていても、迫りくる冷気、という感じがない。なんとなく暖かく、時には知らぬ間に布団をはぎ取って、朝布団なしで寝ていることもある。多分暑くて無意識に蹴飛ばしてでもいるのだろう。

単純に気温だけでは寒さの度合いは測れないのかもしれない。

考えることに制限がないことについて。

文系、理系と分けるくせを付けて、ど文系である、として生きてきた私は理系的アイテムには自動的に耳が受け付けない、スルー機構が出来ている。どうせわからないし、わからないと嫌な気分だからだ。

しかしふと今朝、考えた。

わからないで嫌、というのは、もしかすると”他の誰かが分かっているのに、自分がわからないと、周囲に自分の能力が低いと思われるのが嫌だ”という要素があるのではないか。

勿論主にそれは学校時代に植え付けられた癖であり、無意識な考え方だ。

しかし、いまはもう学校は関係がない。なくなってもう長い。だがその癖を引きずっている。

これはこの日本という社会で、ほとんどすべてが”比較”で成り立っているからだろう。人よりも年収が多い。人よりも美しい、人よりも親切だ。全ての前提が”人よりも”なのである。

もちろんそうではない人もいるのだろう。しかしどうもほとんどの人がそうなっており、そしてそのことが問題視されているとは感じられない。

無意識のくびき。この”人よりも”こそが呪いの言葉、全てのストレスの発生源ではないのか。

思えば子供のころ、”みんながもっとうから買うてー”とモノをよくねだった(神戸では音便系的に”もっとお”と言います、”もっとる”ではありません=個人的見解)。そうすると、母親から”みんながもっとうからという理由では買わない”と云われたことを、今でも思い出す。

あれは心に残った。学校や日本社会では、みんながやっていることにあわせる、ということが社会生活だ、という風に子供心に学んだのだろう。だが我が家ではどうやらその価値観が違うらしいぞ?

家と世間の違い、を感じた一瞬であった(まあ、買ってもらえなかった残念さが大きく、覚えているだけのような気もしますが)。

人は人、自分は自分、という言い方がある。みなさんなかなかそういう風には割り切れないので、このようなことわざがあるのだろう。

で、文系、理系の話。

理系的問題に面したとたんに、考えたらストレスになる、わからないと馬鹿にされる、というもはや根源的に染みついた思いが即座に浮かぶ。自分が苦手な知識や考え方で理系の人は問題を解くのだろう、などと思いながら。

そこで、実際には誰もいない”仮想的理系敵”と自分を比較しているのだ。

だがもう、比較されることはない(少なくとも個人の世界では)。

勿論会社では比較される。理系的問題を解けと言われないように、”自分は文系ですから”と予防線を張っておかねばならない。それはいまでも有効だ。なので、この日本社会では、私は”理系文系”区別は重要だとは思っている。

今日言いたいのは純個人的世界の問題である。そこでも”理系問題が出来ないことによる他人からのばかにされ”が発生するだろうか。いや、発生しない。

比較されるのが嫌すぎて、自然的本能的に避けてきたのだ。

そこに気づいた。

個人世界で、もし個人的な理系問題があった際、自分の能力にあった範囲で考えて自分なりの答えを、ゆっくりと、プリミティブに、見つけていけばいいではないか。

そう思ったのだ。

その答えを人に開陳する必要はない。自分の中で、ひっそりと、抱えていればいい。チェリッシュ、すればいい。

そう思い至って、なんだかすこしだけ、気持ちが軽くなった気がしている。

(無理に解こうとはしない、気が向いたら、義務感ではなく好奇心で、といった態度も必要でしょうね)




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豆象屋
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