9.9 森鴎外と片山廣子。
森鴎外は、1862年2月17日生まれ、1922年7月9日に亡くなっている。享年60.
片山廣子は1878年生れであるから鴎外は16歳年上である。森茉莉をはじめとする子煩悩と実直な人柄を敬愛されたイメージのある鴎外であるが、軍人ということもあり、そして軍人のなかでは異色でもある医官であったということもあり、鷹揚な大人というよりは、細かい所に結構気を病むところがあったようだ。
9歳で14歳が入学年齢である医学校に年を偽って入ることができたというから、その知力がまずは際立っているだろう。若く欧州各地での見聞を持ったことがその後の人生に大きく影響しているのだろう。
当時の婦人の常として、廣子は海外へ行ったことはなく、軽井沢への避暑が大きな気分転換であったようだが、そのころのみではなく、戦後であってもなかなか海外渡航は困難な時代が長く続いたと思う。廣子の場合はプロテスタントの学校に寄宿して学んでいることから、疑似的な西洋文化の基に少女時代を過ごしているといえるだろう。実際に行くことと、生きたいと焦がれて行けないで過ごすということは、似ている部分もあろうが、熱量のある場所がまずは違う気がする。
廣子の訳を鴎外は褒めている。自身留学経験があり、飛び級どころではない飛び級をしてきたような英才をして、その訳で気になるところやまずい所を感じずに終わりまで行った、と言っている。
英才たるが故の性であろう。どうしても人の仕事に粗が見える。見えてしまう。
絵のプロは他人の絵を見ると、これは参った、かこれはいかがなものか、という2種の感慨から決して100%は逃れられないだろうと思う。自身が技術論として絵を見ることがない、という自由は、絵描きにはないのと同じであろう。
(鴎外や漱石が住んだ家に、廣子も住んだといいます。そこにも縁を感じますね)