![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/74243579/rectangle_large_type_2_68471911e6ec586cd1576fb6063194ce.jpeg?width=1200)
日記3月24日 苦手、とは比較の言葉であることに今さらながら気づいた。
そもそも「苦手」という意識は他人との比較を含んでいる。言い訳のための言葉である。自分が主役の自分の人生に得意も苦手も言い訳も本来不要である。
はずなのだが、人生の初めての集団生活では、まずは集団の中で、「人並みにできること」を強制される。
そして、「苦手」を「普通」にしなくてはならない、「得意」があれば集団生活は快適だ、ということをからだで覚える。
しかし本日、やっと気づいたのだ。「苦手」とはだれかと、自分を比較している。
「苦手」という言葉を脳内でつぶやいたとたん、「言い訳」がしたくなる。
そして、気分が落ちる。
しかし、自身でできる精いっぱいがあるだけで、それをわざわざ「苦手」といって「攻撃しないでください」と祈るように思う環境って、そもそもどうなのか。
自身が、まずは精いっぱいやっているか。それだけではないのか。自身が精いっぱいやっていなければ、それはやればいい。
例えば親以外の保育管理者にとって、他人の子供の管理をするのであれば、その子ができるだけ「手がかからない」ことを自然と望むだろう。
手がかかると、勿論できるように指導しよう、というのがあるが、どこかで「できないその子」をめんどくさく思う人がいるだろう。
そうではない、人もいるだろう。
私が子供であれば、前者は避けて、後者に寄ってゆく。
多分、その人の語彙には、あまり「苦手」はないだろう。まだできない、やれるようにトライしようね、があるだろう。
だがそれは手間がかかる。手間がかかるとは、場所や環境によっては「コストがかかる」だ。
組織としては、前者を優遇、する組織が当然ありうる。昔あった、株式会社学校、などはやはり効率重視、前者の人を高級優遇、となる場合もあるだろう。
保育園に小さいうちから預けること。
介護施設に老人を預けること。
これらのリスクは似ている。つまりは「施設でいじめられる」だ。
でも、女性は働かなければならない。手がかかる老人は介護施設に入れるしかない。
そう、なっている。
なってはいるのだが、
いやあ、きついなあ、、、、
というキブンが本音のところで、問題点として、ある。
(どうすれば、いいんでしょうね。。。)
いいなと思ったら応援しよう!
![豆象屋](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/40270723/profile_57ed6a135aa85ba608a18d74309b546c.png?width=600&crop=1:1,smart)