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10月12日 本は読めてないし、新刊書は買ってはいないけれども。

私は正直ハリー・ポッターはものすごくのめり込んだってわけではないのだけれど、
(ローリングさんが本書を生み出した経緯等には感銘をうけたが)それは多分日常と異世界の行ったり来たりが自分に置き換えると嫌だからだろう。

ハイ・ファンタジーが好きなのだ、別に自己を投影してね、というキャラは不要で、自然に気に入ったキャラに肩入れする。本を開くと異世界にすぐに次元移動できる装置であるハイ・ファンタジーが好き。

ハリーの物語は勿論カタルシスはあるし、自身を投影すれば自身が大魔法使いになることができる。だけど現世のイジメやなんやかやへのリベンジ、みたいなもの(まあそれはそれで嫌いではないが)はエンタメ消費に寄っている感がするのだ。
できればヘッセのガラス玉演戯、くらい別世界に飛ばしてほしいわけだ(いつもは「指輪」挙げてますが、ちょっと変えてみました(笑))。

ガラス玉演戯(上)(新潮文庫)
ガラス玉演戯(上)(新潮文庫)
作者:ヘルマン・ヘッセ
新潮社
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別にお高くとまっている気はないが、その方が上手く”離脱”できる気がするのだ。

本とは一番お手軽に時間とエゴとDNAから逃れうる手段だ。
もちろんどの本でもいいわけではない。

池田晶子さんは「古典を読め」とおっしゃった。
長い年月での様々な人々の評価を経ないと、古典にはなりえないから。

もちろん、古典になりうる素晴らしい本がすべて生き残るわけではない。
だが、読んだ人々の魂からのプレゼントとして、古典や古本が、生まれるのだと感じる。

ハリー・ポッターに言及したのは、その中で魂を分けていれる装置として本を持ってきているところ。これは実際に魂を置くという話ではあるのだが、そういう”物質的”魂ではなく、いわゆる作者の”残思念””言霊”のようなものが、”結果的に”、本に残っているという感触を、ある類の本からは受けることがあるのだ。

これは比喩ではある。別に幽霊が憑いているわけではない。

だが例えば池田晶子さんの本を手に取って、どのページでもいい、パラリと開ければそこには”真実”がより取り見取りで転がっている。

14歳からの哲学 考えるための教科書
14歳からの哲学 考えるための教科書
作者:池田 晶子
トランスビュー
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池田さんは”哲学の巫女”と自称されたことがあったと認識する。巫女とはつまりその口を発声装置として、内容としては”神=真実の言葉”を発する存在だ。自身のアレンジは、基本、無し。

つまりは「ほんとうの事しか言わない」、もっというと「ほんとうの事しか言えない」ということを、その言葉から表明されたのである。

それらの真実が、もっともアクセス・再現しやすい形であるのが、私見では”本”という存在だ。
いろいろな電子機器の変遷や企業の変遷、国家の変遷などを見ると、電子データはなんというかすこし脆弱であると感じる。
まあアマゾンはつぶれないだろうが、電子情報は電気がないと見れないのだ。

本も、例えば小さすぎる字だと見えません!ということもあろうが、ルーペもある。
本が真実を与えてくれると感じたことがあれば、私のように読めてなくても、「読めばわかる」という感覚はある。
(昔の文庫本の字が小さいのは、小さくとも読むで!!!という気合が人々により蔓延していたからかもという気もする)

だが、多くの中から選ぶことが、結構難しいのだ。

本屋に実際に移動することも、結構難しいのだ。特に本屋が減った地域では。

そして、本はかさばる。埋もれると、どこにどんな本があるか、忘れてしまう。

といった問題は山積している。


私も電子書籍は少しは買っている。だがあまり継続していない。やはり所有している感じがあまりないからだ。
この感じには、個人差があろう。本を読んできた世代と、電子がデフォルトな世代では全くちがうものだろう。

ひとに本をおすすめすることは、現実ではあまりない。このような場で、個人として面白かった、ということはたまにささやくのだが。

古本もまた、ぼちぼち買っている。


食費が、減り勝ちではありますが。。。。。。。(´;ω;`)

(食費を削って本を買うのは、すこしマゾ的快楽ありますよね。。そしてそれでもできるだけ健康でいる、というゲーム感も。。。。(苦笑))



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豆象屋
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