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8.12 モノを創ろうとすることの重要性。森博嗣氏からの教えとコールドスリープによる永遠の命のディストピア性について。そして完全自由であることについての池田晶子さんの教えについて。

画家は長命であるという。

勿論生活の為の画業であればそれほどでもないだろう。あくまで「何故かわからないが描きたい」という境地が必要なように思う。

私は会社員を長らく勤めているが、版画を制作するようになってから、題材を無意識でも常に求めている感じがあるのだが、これが実に心地よい。

私の性格は完全に「蒐集者」。蒐集が終わると次の目標を定めないと元気が出ない。蒐集者はコレクター(集めたものを愛玩する)とは少し違う。

森博嗣氏も似た感じだろう。蒐集者とコレクターは違う、ということを私は森氏の著書から教わった(ほかにもいろいろ教わっているが)。

例えば頭を真っ白にして働く時間のこと。勿論結果として運動が出来て健康になる、という面もあるが、更に行っているときの無心になる感じが一番よいところだろう。

森氏は明らかにされない外国の広大な森で、落ち葉の管理をされて庭園鉄道を運営されているということだが、落ち葉管理が良い運動になっているようだ。

翻って猫の額程度の庭しかない私であるが、ここの管理も結構大変だ。だが、暑さ寒さに晒される屋外での活動は、なんというのか、身体へのよき刺激となるだろう。勿論脳に対しても。

要するにやりたいことをやりたいようにやって、ただ受け身ではなく攻めで行わねばならないのだろう。

ただじっとしていることのしんどさ、これをよく考えておかねばならない。

よくあるディストピアの図は、だが実は結構真実味があるのかなと思うのはAIが世界を管理して人類はすべからくコールドスリープ状態にいる、というあれだ。身近な例では映画マトリックスでの描写などが想起されるが、人間が自ら望んで、長命、永遠に存在すること、を目ざしてコールドスリープに入ってゆくことになるのだろう。

だが、寝たままで本当に幸せなのだろうか。マトリックスではそのことは否定的である。我々があの図を見て感じる不安というのも、たぶんそのあたりにあるのだろう。

やはり「生物」として、与えられたこの「身体」(もし輪廻的なあるいは潜在的深層心理的全体意識があるのであれば、仮の身体、といってもいいかもしれない)を十全に生かして、活動することで、多分魂は真の歓びを感じるような気がしている。

私はいわゆる「宗教」として形づけられて相互監視する仕組みに興味はないのだが、プラトンはじめ哲学者たちがずっと考えてきた「この世界の意味、あるいは無意味」のようなところから導かれる死生観や魂という考え方の構え、そして「神」(敢えて括弧つき(笑))については、自由に考えてもよいのだと思っている。

ここ日本では、いわゆる組織化された宗教への取り込みが怖すぎて、勢いそうしたことをそもそも考えることが引き込まれるリスクがある、という風に皆さん考えているように思う。少なくとも私はそうである。

だが多分違うのだ。

例えば小説ではその中では作者はどんなほらでもどんな不道徳でも(もちろん発表するなら調整要だが)なんでもすべてが可能であり、許されている。

誰に?敢えて比喩的に言えば「創造の神」であろう。要はあなたに、だ。

同じく創造、絵でも思想でも哲学でも考えでも、まあ、どう表現してもいいのだが、自分のなかから生まれ出ずるもの、それは完全に自由なのだ。

しがらみをきちんと見据えて、そのくびきを逃れて完全自由でありなさい。

故池田晶子さんがおっしゃっていたのはそのようなことだ。


師、とはそのように指先に指針を示される方のことであると、改めて思うのだ。

(完全自由でありなさい。その言葉を読んで元気を頂いたことを思い出しました)



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豆象屋
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