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2月3日 今日の気づき。創造と破壊に必要なエネルギー量。

たぶんわずかな入力で長い間続いていた堅牢な制度が激変するのを見ると(自分がその被害者である場合でさえ)、ある種の全能感のようなものを感じるのだろう。
 私は合気道の師の多田宏先生から「破壊することは、創造するときに要する力の100分の1でできる」と教わった。だから、全能感を手早く求める者は必ず破壊に走る。先生の教えはそう続いた。
内田樹の研究室 1月20日

物事を始めるには大きな心理的エネルギーが必要である。

日々なにかに取り組む時さえそう感じるのだ。

社会や世界を変えようと(少なくとも)意識上で思うことは、大きなきっかけとエネルギーが個人に必要であろう。

そこのところは自身でもしみじみ感じているのだが、では破壊に必要なエネルギーは、という問いは、あまり自分の中になかった気がする。

問いがないこと自体、あるいは破壊にエネルギーがあまり必要ではない(破壊自体には必要かもしれないが、それにとりかかろうとするエネルギーは)ということを端的にあらわしているのかもしれない。

破壊は簡単に始められ、かつ内田先生の文によれば「全能感がえられる」という。

たしかに、破壊をすると、破壊者である自身が、破壊されたものよりも「偉い」気がするようだ。これは確かに「全能感」ともいえる。

一方で、破壊することは、派手で外部に伝わりやすいし、伝えることも容易だ。なので、手段としての自己アピールにもいい。

つまりは、「目立つにはよい手法」となり場合が多いのだろう。

だが多くの人がそれを行えば、世界は焼け野原になるか、あるいは少なくとも劣化するであろう。


なので、「破壊には慎重に」という知恵を生むのは、個人が目立ちたい、ということが普通の社会では、いささか困難であろう。


なんらかの形で、成熟が、必要なのだろう。

(どのように成熟を求めるか、ですね。。文化、余裕、このあたりをみんなが希求することが必要な気がします。ですが難しそうですね。。)












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豆象屋
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