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11月10日 自らが、奇跡としてたまたまこの世に生まれて、自身をどのように処してゆくかを感じ、考えることについて。
今朝の体重64.3kg、体脂肪11.7%。
この3日間ほどは結構いろいろ食べた。ので、まあこのような体重となってはいるが、野菜や魚などを結構食べたので、これはこれでよしとしたい。
今日は本来はスポーツセンターに行く曜日なのだが、月に1回の休館日なので行けないのであった。
で、先週は版画工房の先生から、私の最新作のデータが必要とのご連絡を頂く。
しかし、今展示中の1作しか刷っていないので、今日は工房に行って追加で1枚刷る予定。皮膚科にも行く必要あるのと、明日は広島出張でもある。
ちょっといろいろ忙しいかな。。
(嗚呼、図書館から返却督促メールも来ている。。。)
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花であることでしか
拮抗できない 外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
石原吉郎(1915-1977)
8年間のシベリア抑留を経験した詩人の言葉は、
その経験を知ればより重みを増す。
詩も、批評も小説も、池田晶子さんはその作者の属性や書かれたときの状況を省いて向き合うべきだ、とおっしゃった。
そして深くその通りだ、と感じつつも、
ついついいろいろな状況を知りたがっている自分がいる。
上記の詩にしてもそうだ。
詩人のシベリア抑留の経験から、静かに湧き出る露が如き言葉であろう、と思う。
それが激烈なる怒りであってもいいのだが、それが勁く可憐な花にたとえられることで、
どうしても深く感じ入ってしまうことに、なるのである。
ユング: 地下の大王
ユング: 地下の大王
作者:コリン・ウィルソン,一郎, 安田,Colin Wilson
河出書房新社
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ユング―地下の大王 (河出文庫) コリン ウィルソン
ユング―地下の大王 (河出文庫) コリン ウィルソン
ノーブランド品
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アウトサイダーで有名な、コリン・ウィルソンの”ユング 地下の大王”の文庫本を、積読本のなかから引っ張りだして読みだした。
アウトサイダー
アウトサイダー
作者:C・ウィルソン
紀伊國屋書店
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ここでも何度か書いているが、私はヘルマン・ヘッセの”デミアン”をだいぶおっさんになってから初めて読んで、すっかり感じ入り、
その中に書かれていたグノーシス主義の香気にあてられてそこからふらふらとユング・ワールドに足を踏み入れた口である。
大学時代は、とにかくこの生まれつきのオタク気質が、一般社会にたぶんなじまないだろう、という直観に基づき、
文学部や美術大学に行かずに就職に有利な学部を(自ら、忸怩たる思いで、)選んだ、という感覚がある。
だが実学よりむしろ大学では興味ある好きな学問をやりたかったなあ、とずっと引っ掛かっているのである。
語学が好きではない(文法が大嫌い)のが残念で、昔の小林秀雄のように、フランス語の原書を読みたくて仏文に入る、というルートが取れない(翻訳本が既に潤沢に存在)ので、ではなに?というと直観では文章より絵画であったこともある(→絵はもっと"食えない”卒業後はたぶん美術教師一択だろうと思っていた、で、人に教えるのが苦手)。
まあ、そういう意味では精神医学や心理学、宗教学、哲学、文学史、美術史、美学、などは興味がある。いまさら、かもしれないが、なんらかの形で学べればなあ、とうすぼんやりと思ったりもしている。
コリン・ウィルソンの本の序文を読んで、デカルト主義(実証主義)に直感的になじまない浪漫主義者の一人として、つまりは本能的にこの世界に自然とは馴染むことができない人種の一人として、ユングが在った、ということを感じた。
同じ臭いのする人間、というと、ユングの達成したことば偉大すぎるわけだが、そこで”地獄の人との比較”に陥っている暇はないのだ。
ただ、”ユングって面白そう”、それだけでいいわけだ。
ユングが未分化・未発達の、いまだ主体的な”精神医学”にときめきを感じたのは、個人的にはよくわかる気がする。
自分の本能が惹かれる事柄を、心のままに追求しても、それが生きてかつその学問の中で確固たる地位が築けそうである、という直観。そんな分野を若きときに、発見できることは大変に嬉しいことであろう。
同書序文から引く。
P.14
ユングの自伝『思い出、夢、思想』の始めの諸章からはっきりわかることは、彼が美しい少女と英雄的な行為を夢見る内向的で、ロマンティックな人だったこと、心霊術に対する彼の関心は日常生活の退屈と平凡さを追い払うことができるはげしさの一形態を見つけようという一つの試みだったことである。
P.15
どの人間も弱さの感じと無力感と受身の感じを同じようにもって、この世に生まれる。もし彼が、知性や想像力を欠いている人々によって取り囲まれているほど不運ならーこの記述はたいていの人種を網羅しているから、かなり起こりそうな事柄であるーそのとき、弱さは、やむを得ないという感じや、物事は今ある通りであった、どんな変化も期待できないという暗黙の信念と混じりあうだろう。
P.16
まず第一に、精神医学は未発達だから主観的だという告白ー、これは、ロマン主義的な理想家が主観的に研究する余地があるだろうということを示している。
P.17
彼を興奮させたのは、この「未発達な」分野が彼自身のせき止められた創造的なエネルギーのはけ口になるという考えのほうだった。
ユング 地下の大王 河出文庫 コリン・ウィルソン 安田一郎訳 1993
断片的にすこし長く引用したが、まあそういうことだ。
若きユングもまた、自身の中にあるうごめく若き魂に合う、生活と人生を求めて、そして精神医学に出会ったのである。
そのことは、その後のユングの人生を知っている後世の人間の一人として、なんというか大変に寿ぐべき、うらやましい出会いである、と
感じるわけである。
(精神医学の黎明期、医学が呪術や魔術から離れて完全に独立しつつある時期、でもあったのでしょうか。だが学問としての独立にはすべからくデカルト主義(実証主義)が関与していると思います。デカルト主義から生まれつつも、そこに未発達であるがゆえに未だ”毒されすぎない””縛られすぎない”学問。そこが魅力的であることはよくわかります。現代日本でいけば、例えば”マンガ学”といった分野でしょうか。ですが医学系である、というところはより強いですね→端的にニーズが高い(いってしまえば”カネになる”という意味で)。)
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