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2月7日(月)#日記 動物としての人間。

今朝の体重は66.8kg。体脂肪率は9.1%と出た。昨日は確か67kgであったので、0.3kgの減である。朝食後。全人類の男性平均体重が65.7kg、という記述のある本を読んだが、それでいくと私はけっこう、日本人というより、人類の平均体重に近いのだなあ。。

進化人類学、という学問があるのかどうか、よくわかっていないのだが、動物というものは、絶えず進化(進化、という言葉が善い、という意味を含むのであれば変化、といってもいいかもしれないが)するものだと思う。

たまたま住んでいるこの地球、という星で、その与えられた環境下で最適の生き残り戦略を、大きく種としては取っている。これは「種」があり「取ろう」という意思があるわけではないのだが、結果としてそう見える、ということだ。結果としてそう見えることに「意思」を感じるむきもあろうから、これを「天の意思」という表現にしてもいいかもしれない。

意思、というと、なにか一つの個体としての認識があるような印象を受けるが、そうではないだろう。例えばこの世界。存在が開始したのは、たぶん精神ような存在ではないところで、なんらかのきっかけで「存在を開始しよう」という意思のようなものが働いて、存在が開始したのだと思う。

いままでずっと「宇宙が膨張するといっても、膨張する先に空間があったらその空間は宇宙の一部ではないのか」ということを考えてきたのだが、堂々めぐりで答えがでない。

出なかったのだが、空間があるのであればそれは既に存在、あるいは宇宙の一部であるのだから、宇宙の果て、を考えるのであれば、あるいは「存在の果て」を考えるのであれば、その境界は「精神」であろう。精神のなかに、いきなり存在がうまれて、うまれつつある、としか考えられない。

精神であれば、いまこの私も、「私」あるいはそれを含む「魂」のようなものをこの「身体の中にあるように」感じている。

この感覚こそが、グノーシスでいう「人間は神の一部である」という感触ではないだろうか、と思っている。

別に「神」がえらいわけではない。全知全能であるわけではない。だが、絶対的にあるものではある。

全てが「一」である、という感覚、これが宗教心の始まりであるように想うのだが、別に宗教といっても「信じる」がマストではないだろう。ああ、こんなもんかなあ。と思い。そしてそのことは「自身がこの身体でいるあいだは答えがわからないなあ」と思うこと。

これがなんというか、いまの自分で思う「宗教」だ。

神がいるのかいないのか、に拘泥するものが、宗教ではないのだ(個人的には)。

で、与えられた条件で、「存在」は「存在」しようとする。これは意思というより、在りようの問題だ。

生物、の至上命題は、種として生き続けること。続けるためには、世界によりよく対応してゆくのみ。そこに「よい」も「わるい」もない。ただ、そうなるのみ。

生き良くしよう、と努力するのも織り込み済みだ。成功も失敗もある。個人、といっても、例えば大腸には寄生する菌が何兆もいるわけだ。個別で意識はないかもしれないが、菌とは「生物」の一種である。菌たちにとっては、私の大腸は太陽系みたいなものだ。銀河みたいな、ものなのだ。

なべて世はこともなし、という。

これがどのように響くのかは、それこそ人に寄るし、どの瞬間にいるかにもよる。すべて、正解も、不正解も、ないのだ。

人類も、そうだ。

(妄言、申し訳ありません(笑))

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豆象屋
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