4月12日 哲学と科学の間。科学教とはなにか。そして「疑似科学」の位置づけとは。
宗教や哲学は、この日本ではたぶん人間に必須のものとは思われていないだろう。
「そういう方向」にあるどちらかというと少数の「頭でっかち」あるいは「スピリチュアルに振れた」人たちの、暇つぶしに近いものだ、と多くの皆さんは思っているのでないか。
その心根は、「生きるのにいっぱいいっぱいで、それどころではない」
であろう。
時間がある、暇がある、金がある。
いいですなあ、優雅で。
そんな「ひねくれたような」感覚を結構な皆さんがお持ちであるように感じる。
だが、本当にそうか。
「ハイデッガーの哲学」を読みだしたが、そこではなぜハイデッガーが「存在」というものにこだわったか、ということが書かれており、大変共感した。
いや、すぐ共感するほうだが((笑))。
科学では、わからないことがあるが「科学教」(池田晶子さん著書でも頻繁に述べられている)に知らずほぼ全員がかかっているこの日本、
ほかならぬ私もそうなのだが、
基本「科学で世界のすべてが説明できる。いまできていなくとも将来はできる」「科学とはそういうものだ」。そう思っている。
これが私が思う「科学教」の教義である。
ではなぜ「教」をいわばネガティブな意味でつけるのか。
それは、「科学ではたぶん説明できない部分がありそうだ」と、
最近私は感じるからだ。
どこかで、「この世はうまくすべてを説明しきれないものだ」という
あきらめめいたものが必要ではないか、と思うからだ。
それなのに、「科学は万能だ」と無理に思うので「信じる」が入っていると思うのだ。たぶん、そう思いたくない、という希望、あるいはわからないことがあると不安、あるいはストレスだ、という部分もあるだろう。
端的には、このコーナーでいつも言っている、「宇宙が膨張しているとして、宇宙の端はいったい「どこ」に膨張しているのか」問題である。
膨張するにはそのための場所がいる。そのような場所があるなら、そこを何と呼ぶかは別にして、宇宙以外の場所があり、それも含めて「この世」であるなら、結局「この世の果て」はうまく考えられないし、たぶん「人類」にはわからない、「科学」にもわからないことだろう、と
感じているのだ。
まあ、個人の感想ですが。
で、そこは、「わからないものがあることを認め」「わからないものの下に傍線を引いて考え続ける」という構えの、「哲学」でしか、対応(というか心の平安を保つ)ことが出来ないのでは、ないだろうか。
そして、こうした「哲学の構え」がどうにも性に合わないのであれば、「宗教」で、「そういうことにしておく」という仮定措置を導入するしかないのではないか。
とまあ、そうは思うのだが、
よくしたもので、「疑似科学」という分野が、うまく科学教と宗教の間をとりもつように、
発展してはいるようだ。
(いや、こうかくと「疑似科学」をばかにしているようですが、それだけではありません。方便としての存在感も、あるような。。。)