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被爆者に思いを寄せる人々
長崎、広島の被爆者にお会いし、思いを寄せてくれた人々は、「日本被団協 ノーベル平和賞受賞」の報をどう受け取っただろうか。
感涙だと思う。
私は長崎市出身。祖母が入市被爆し、当時お腹の中にいた私の母も被爆者手帳を持つ。母は79歳。美しい夕陽で知られる長崎外海(そとめ)でパンを焼きながら、元気に暮らしている。今のところ、目立った被爆後遺症は出ていない。
55歳の私。被爆地で生まれ育ち、小さいころから「ケロイド」という言葉をよく聞いた。私が通った長崎市郊外の市立小学校でも、教頭先生が自らの被爆体験を講和した。「背中にガラスが刺さった」という話をしてくれたような記憶がある。45年ほど前の話。
被爆地ナガサキでは、いろんな人が被爆者に接してきた。一番はご家族。地域の住民や子どもたち、修学旅行生、市役所の職員、高校生平和大使、医師・看護師、そして、俳優…。
私がこれまでの取材でお会いした被爆者の皆様は皆、例外なく「原爆投下を繰り返してはならない」と平和の尊さを語ってくれた。
あと、「長崎市出身」という事実をふせて暮らしたという話もよく聞いた。結婚できなくなると。
被爆79周年のことし2024年。
来年は被爆80周年の節目。
祖母を含め、取材した被爆者はほぼ皆逝ってしまった。生前のお顔を思い出す。
被爆者団体がノーベル平和賞を受賞したことにより、核保有国が核兵器を使う可能性が低まったとは思わない、まったく思えない。
ただ、受賞に際し、被爆者を取材したすべてのジャーナリストに感謝したい。
地元紙の歴代記者はもちろん、全国紙や通信社、国連軍縮会議を追う各社の外信部記者も、記者OBOGも、フリーライターも。外国のプレスの皆様も。
今、被爆者救済問題を取材し続けた大先輩たちの顔も思い浮かぶ。信念も執念もあった。長く勤めた報道機関を退職した後も、被爆者に寄り添う活動をしている人もいる。
平和は尊い。
世界の恒久平和に向け、取材者一人一人の原爆報道の積み重ねもまた尊い。