廣瀬智央 「フォレストボール」大丸有SDGs ACT5 レビュー
あなたは何者ですか? あなたは、どこでだれと生活/仕事していますか? と問われたとき、そのひとつの答えは「フォレストボール」を見る目を通した私たちの中にあるのかもしれない。
「大丸有SDGs ACT5 × 東京ビエンナーレ2020/2021」@新有楽町ビル1階
廣瀬智央 「フォレストボール」
2020年8月21日(金)〜10月25日(日)
新有楽町ビルは、1階の四方に入口があって、そこから十字にのびた廊下が交差し、中央は天井高3m程度のちょっとした広場になっている。よくある現代的な商業ビルだ。
人々の進むべき進路をさえぎるかのように、その広場に作品は存在する。
まず、空間いっぱいに展開される植物だらけの球体に驚かされる。様々なかたちの葉がにぎやかに入り乱れつつも、なんとなく引き立てあい調和しあって、全体としてきれいにまるのかたちになっている。よく見ればそれはすべて造花だし、球体で容易にふらふらしそうな体は地べたに固定されている。
人間の都合でつくられた通路を、その存在で通路とさせない佇まいは、青々として明るく無邪気な表情で誰彼構わず巻き込んで、何かしらの違和感を抱かせる。アートに興味がない人だって「イベントか?まっすぐ行けなくて邪魔だな」「何だこれ、何の意味があってここに置くわけ?」と何かしら感じることができるはずだ。
作品とのすれ違い方によっては気付かない、あるいは大きな球体に気を取られて見過ごして、蹴とばしてしまうかもしれないような地面に、対になるようにミニチュアの丸が置かれている。実際に誰かがぶつかったりしたのだろうか、地面に葉が散っていた。こちらは鉢植えの様な受け皿にのって、土だんごのところどころから緑が顔を出している。本物の植物、生花だ。
この大小の緑のまるから、酒蔵や酒屋の軒先に下がった「杉玉」か、デザイン盆栽といった趣の「苔玉」を想起するが、それらは徹底的に手を入れられていて、手におえる一部の自然を、何かの目的のために切り出した象徴だ。
例えば「杉玉」なら、その存在と色の変化で、新酒の完成とその熟成を伝えたともいわれるし、お酒の神様を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)に群生している杉を束ねて、お酒の神様の偶像としたともいわれている。
「苔玉」であれば、植物をミニマルな装置に置き換えることで、手入れが簡単になるし、100均で買えるくらいの値段になる。日本の狭い住宅事情にも適応するし、ウサギ小屋と揶揄されるアスファルト塗りの小箱からでも、自然を感じる為の、手におえるデザインだ。
それらと共通点を感じながらも「フォレストボール」が違うのは、人工物と自然が対比されつつも並んで、業務連絡でもなく、祈りでもなく、楽しむでもないメッセージを放ちながらそこに在る点だ。
おそらく多くの人が違和感を感じながらも通りすぎていく。その行為は、日々の出来事にせかされて、問題を理解し対峙する余裕を持てないという現代の都会に生きる私たちの姿と重なる。そのうえ街や情報端末には華やかな人工物が溢れているから、目の前の問題や足元の自然に気付かないフリをすることもできるし、そもそも関心を持たないこともできうる。
「通路に大きすぎるものがあると邪魔だ」を俯瞰してみれば「ある流れの中に、それを遮る何かがある違和感」とも言い換えられるかもしれない。俯瞰ついでに鳥になったつもりで、どんどん上昇してみる。ここ丸の内から23区、東京から関東、日本からアジアへ。そこからはどう見えるだろうか、感じられるだろうか。私たちの営みは・・・。
そこからは本展示のテーマであるSDGsに繋がってくる。SDGsとは平たく言えば「人類がよりよく持続的にあるために解決する問題と目標」で、大きく分類して17のゴールとそれを達成するための具体的指標169が設定されている。最近話題のBLMや格差、貧困、環境問題など他人事ではいられない数々の問題だ。これらは50年も前に「世界人権宣言」として明文化され、戦ってきたように思えるが、どれくらい良くなったかは明らかではない。
問題は単純化できないし、容易に解決はできないが、複雑にしている原因の一つは今ここで存在している社会の在り方ではないだろうか。境界や既成概念を作り出し、それによって、正しいシステムと周縁の存在がうまれて、人は分断され無関心や対立がうまれる。SDGsはそれに現実的に立ち向かう誓いだ。
作品を今一度見みてみる。2つの存在からはこんな声が聞こえてくるような気がした。あなたとわたし、都市と自然、マクロコスモスとミクロコスモス。宇宙や他者を考えることは、つまり、自分を考えることなのだと。
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