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水仙の咲くころ
寒い毎日です。皆様お元気でしょうか?
さて、今回は、実家問題からちょっと離れて、
命のこと、在り方見え方、私達の居場所、について考えたい
と思う。
水仙。
名ばかりの春に、冷え切った土から力強く芽吹き、
澄んだ香りの花を咲かせる、水仙。
多年草で、河原や公園の花壇など、いたるところで、手をかけなくても
毎年、同じころに、群れて咲く。綺麗な緑の葉茎を伸ばし、長い葉の間からちょんちょんと蕾を垂らす様がかわいい。
ラッパ水仙など種類も多く、私達にとって、ごく身近な花だ。
学名:Narcissus tazetta ギリシャ神話のナルキソスのお話は有名ですね。
ナルシシスト:自己を愛する者 の語源でもある。
水面に映る自分に恋焦がれて、死んでしまった美少年は、水仙の花になったという。
ヒガンバナ科であることは、知らなかった。薬屋のくせにー!
彼岸花も全草有毒だが、
水仙も全草有毒。含まれる成分、リコリン等アルカロイドを摂取すると嘔吐するため吐かせる薬、吐剤としても使われていたとのこと。食用のニラと葉の形が似ていることもあって、間違えて食する中毒も報告されているそうだ。季節が違いますから、大丈夫だとは思うけど、念のため、ご注意を。
毒は薬である、そのシンプルな事例ですね。
神話の中には、伏線と言うか、神の意図というべきなのか
深いものがある。
因みに神話では、ナルキッソスが己に恋焦がれて死ぬということは、
神が課した罰。
自らの、其の美しさが、毒になってしまったという結末と、
清香を漂わせ、揺れる水仙の花の残像。
神話の時代、人々は、様々な事象に、いろんな神の意図を見、
私達には見えないし、わかり得ないカラクリを
うまいこと、「はー、なるほど」って感じに
美しく記述した。
人間の感受性、想像力には、恐れ入るばかりです。
さてさて、改めて申すまでもなく、私は 何か信心が深いわけでもなく、
高い教養もない、ばあさんで、
生まれてこのかた60年、物事を深く考えずに
普通っぽく在ること、を目指してきた。
「それがフツーなら、それで・・」と言う感じで
時間の上を、なんとか流れてきた人生だった。
そんな感じで流れてこれた、ということは、それはそれは、
大変幸運な事だったと、有難く思う。
一方で、そんな風に
ただ生きてる、だけの私ではありますが、
「なんで?生きているのか」「命とは?」
命について知りたい、自分の元について知りたい、とずっと考えていました。
が、
基本、考えたところで、分からない、ですよ。
なぜ生まれたのか、なぜ生きている、生かされているのか・・
どうすればわかるのか、どう生きたらいいのか、これでいいのか、、、
どこまでいってもわからないから
また、ふて寝を決め込む。
するべきことに追われていた、これ迄の時間においては、
寝たまま生きていた、或いは目をつむっていた、
のかもしれない。
退職後、実家をお終いにした今、盛大に?存分に考えたくて、
手掛かりを求め、あたりかまわず乱読、youtube乱見してるんですが、
生きる意味を知りたい、ならば
アドバイスとして定番なのが、
「生きがいを見つける」「行動する」
「ワクワクすること、好きな事をやってください!」
うー、、、ないっす。。。
思いつかない。お金かかることはできないし、、
ただ、こうしてnoteに記事を「書く」ことは、自分の欲すること、であり、
何の需要も、目論見もないが、楽しい作業でして。
目下のところ、私の一義的居場所はnote上のおさんぽとして、ということなのかもしれません。
そして、ここで、皆さんにご紹介したいnote☟
Ilsaさんの記事は、毎度深いです。Ilsaさんが、よく耳にする「命を大切に」と言うフレーズに、ちょっとした"圧"を感じておられるように、私には思われました。
平べったい言葉の圧、、みたいなもので、
本当の命、つまり、その人その人にとってのかけがえのないもの、を指してはいないように、感じられるのではないか、とも思うのです。
違っていたら、ごめんなさい。
その昔、私が薬局勤めをしていたとき、画一的な命の捉え方を強いられているようで、
つっかえ感がありました。が、私はちょっと変わりものでしたから、
多くの医療者は、一つの流れの中に居ましたし、今もそうだと思います。
そして、kakiさんのnoteは、命の受け止め方の、ある条件下での心理的分析をした書籍の紹介と内容について考察されていて、興味深い記事でした。
私は、videoゲームをしませんし、RPGなんかも全然わかりませんけど、
現実にバトルフィールドに投げ込まれるということを、頭の中だけで、
想像し考えるのは、難しいです。
まずもって 考える、ということができないでしょう。
何のために、何をするのか、その結果どうなるのか、ではなく
結局のところ、命令☛命令☛人殺し なんだということ。
殺されないために、”在”ることが求められる。
どんな大義名分もなく、戦争は
人殺しなんだということ。
命を奪う理由を、個々に考え、~だからと、他人殺しの
言い訳を、自分にすることはできない。考えていないので。
だから、恐らくそれは、
自分の、自分たる本質、魂といえるものを自ら殺さなければ、できない。
そうやって
何も見えない、考えられない状況でなければ、
人は、おいそれと 人を殺せない、ということのようです。
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最後に、私達の居場所について考えたい。
言わずもがな、命 は有難いもの、誰にとっても 大切なものだ。
「長生きしたから、いつ死んでもいい」
なんて言いながら、
人はだいたい、最後まで 一生懸命 生きようとする。
私達が、居場所と、殊更強調するとき、それは命の居場所の事をいう、
のではないかと思います。
命は、なんなのか、上手く言えませんが、
たいせつに思える、自分自身、ということではないでしょうか。
自分自身が生きているということを、
少しも
あたたかく、ありがたく感じられないならば、
誰とも言葉を交わすこともなく、
ただそこにいるだけ、と感じる毎日だとしたら、
一生懸命生きることは、とても辛いだろう。
むしろ、
自分を亡き者にし、
脱殻のようにならなければ
生きていくことはできないかもしれない。
自分自身がそこにはいない、ということ、ではないか?
もし、身体が動かなくても、思うように喋れなくても、
その自分と共に、自分の本質はここにいる、と実感できれば
そこで、居心地よく自分を生きていけるのではないか。
水仙は たぶん、
神話も含めて 毒も香りも、丸ごと自分を抱合し
毎春同じ場所で芽吹き、花を咲かせる。
だって、ここが居場所だから。
本当の自分、というものには、なかなか到達できないみたいでありますが、
本質というものは、たぶん、重層構造の、薄っぺらではないものだろう、から
私も、自分を大目に見るというか、寛大に見守るという感じで、
ゆったりまったり noterとしてのじぶん、居場所としてのnoteと
付き合っていきたいし、
なにかしら
自分の心が喜ぶ、自分自身としていられる、
実在の場所も 創っていきたいなあ、と思っています。
乃井万さんの「心の居場所について教えてください」
#185心の居場所 の募集に
見合ってないかもしれませんが,僭越ながら参加させて頂きます。
宜しくお願い致します。