
サヨナラ、ありがとう~実家~
日曜日は節分。早い!年が明けたら あっちゅーまです。
寒くなってきたこともあって、風邪ひきさんが多いみたいです。
暖かくして、十分食べて、毎日の休息、当たり前ですが、
自分の身体を労ろう。
などと言いつつ、
おさんぽ婆さん、2日続けて 昼抜きで夕飯コンビニ弁当というザマ。
でもって、翌日は、食欲無しでしたが、夜は、鍋の豆腐とだし汁を頂いた。
昼は食べなくていい体、になったんだろうね。
大丈夫、、だろう。まあ、まとも、じゃないんで 良い子はマネしないでね!
実をいうと、私、実家に行っておりました。
亡父の一周忌です。が、特別な法要はせず。
老人ホームの、母の部屋に位牌を置いているので、そこに、
お供えにいただいた花を飾り、
私一人だけで、墓参りして来た、だけですけど。
新幹線と在来線で、3時間ほどかかる。墓所はさらに山の上。
がんばれ~
自ら望んで行ったわけだし、幸いにもお天気が良くて、助かりましたが
それはそれとして。
一周忌なのに、法要しなくていいんですか?
ですよね~
したくないけど、言い訳をします
母は、認知症で、もはや、ゴハンとおやつ以外のことは、なにもわからない。かつ、老人ホームにいる。
法要をするとなると、そうそう、すごく大変だ、私が。
母はもう、実家を離れているし、実家と我が家は宗派も違うし
兄弟も来ないし、親戚も来れないし、孫たちも忙しい。じゃあ
何のために、なぜ法要をするのか、ということで、
何が何でも 拝んでもらわなきゃならぬのか?
ムリせんでも、ええんちゃう?という帰結。
しかし、これは私の勝手な感覚です。
全く一般的ではないでしょうし、全くもって、よろしくはないでしょう。
何の参考にもならんでしょうから、
どうぞご遠慮なく、ムシして飛ばしてください🙇♀️
一周忌の過ごし方は、「良し」ではないとしても
父が亡くなる少し前、からの一年間
私の頭の中には、
遠くにいる母と、父とのやり取りの記憶が常にあった。
思い出さない日など1日もなかった、と思う。
なぜ、父の望むように、最期の時を家で過ごさせてあげなかったのか、、
私には出来なかった、というか 出来ない、で片付けた。
そして、そのことを悔やみ続けた。自分を守る気持ちと
葛藤しながら、遺された家と向き合ってきた。
一人になった母をどうしてあげたらいいのか、
母に何を尋ねても、母の心はまるで風呂敷にでも包まれた感じで、
母自身にも見えていないから、空の言葉が出てくるだけ。
だから、余計に
母の望みはなんだろう、言えないけれども、心からの願があるのに
私が汲み取れていないのでは、という不安にかられ、
あっちからこっちへ
振り子に揺さぶられる日々だった。
誰かが私を責めるわけではないのに、
自分を 責めて
いや、しょうがないですよ、やることはやりました、と
今度は自分をかばって、なんとか前に進もうとしても
またまた、
ありもしないことや、間違っているかもしれないという恐怖に怯え、
しまいに、疲れ果てた。
世界は何も変わっておらず、
ウチの話なんぞ、なんのその、で
かまわず続いているというのに・・
眠れない日も多かったし、
占いにすがったりもした。
だけど、そういうことも、
あっていいのかも よ。
私の行動や発言が、最善ではなかった、としても
大きな力が、流して回して
なんとかなっていく。
1年という時間は、それでも
私の中の、後悔や罪悪感を、ずいぶん薄めてくれました。
親戚の了承を得、離檀し、仏壇を処分し、
どうにもならないように思えた、色んな縛り、を一個ずつ手放して
少しずつ 軽くなり、自分のしんどさを客観視できるようになった。
二月には
家の中身を空にして
買主に引き渡せることになった。
ありがとう、家。
サヨナラ、ありがとう。
綺麗になおしてもらって、新たに生まれ
誰かの大事な家に、なってください。
ありがとう。
売買契約を交わした日の午後、
庭の木に、綺麗な緑色の小鳥(たぶん、めじろ)が二羽、やってきて
ひとしきり 遊んで 飛んで行った。
また、遊びに来てやってねー
来年は、もう少し 楽な気持ちで
父との日々を、思い出すことができるかもしれない。
母はもう、何も思い出せなくなっている かもしれないが、
それも、母が、母の中の本質が、望んだことなのだと
受け容れられる自分でありたいと思う。
私には世間体がないので、勝手なことができる、ともいえる。
肩書もなければ、親戚付き合いも いい加減にやっている。
言い訳の続きになりますが、
それくらい 意識して、身軽でいるほうがいいと思う。
年を重ねることは、
その字のとおり、時間の重なりだから、
記憶と同時に、モノが付いて来るんです。
自分よりでっかいヤツも いっぱい。
それを、折々手放す、見直すことができればいいよね。
引っ越し、差し上げる、捨てる・・
だけど、これは
自分以外の誰か、と繋がらないとできない。
だから、
近くの誰かが、重たそうだ、こんがらがってるな、ってときに
「何かお手伝いしましょうか」
思い切って、声をかけて そこで繋がれると
更に、他者につなげてあげることができるかも、しれないっすよね。
小さな繋がりが、
次への、なんかの、取っ掛りになってくれるかもしれない。
「お互い様」
長屋精神って言うんですかね、これは。
ショーワっぽい??
でも、これは、やっぱり強いチカラだ と思います。
「いらぬお世話かもしれないけど」
手を差し伸べる、口を出す。そういう身近な繋がり には、
めんどくささもありますが、
それ以上に、
人が、潜在的に持っている「不安」を和らげてくれるんじゃないかなー
制度整備とか、金配る、とかもいいですけど
そんなことより
お互い様ぱわー・・の方が
私はすき!
こんな、しょうもないことでした。
感じたことを ただ つらつら述べてすみません。
おさんぽでした。