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もし、〇●なら、、と考える

もし~なら、・・という英語の文、たぶん最初の方で習いました。
私の場合、そりゃもうかなり前、半世紀近く前ですが。

If I were a bird,~もし、私が鳥だったら・・この場合、be動詞をwereで、そう習いました。実際に、コトバそのものや使われ方にはイレギュラーが多い。時代と共に変化もする。最近では、wereを使うのは、古い運用、古典的ってことになってるらしい。
仮定の意味、で ifを用いて2文を繋ぐ場合でも、
通常のbe動詞の運用通りに、I was~とすることが多いんだそうです。
やー、むかしことば、なんですね。
加えて、ifを用いて2文を繋ぐ場合でも、「もし、明日雨なら、やめる。」
のように、未来の条件を述べる場合、
ifの文節は、If it rains tomorrow~、現在形ですね。

もし、〇●なら・・
あなたは、この言葉を、どんなふうに、どんな時に使いますか?

「もし、は無い!!お前、目の前をみろー!やれと言われたことをやれー」

非常に緊急性の高い、切羽詰まった行動場面であれば、そのようなエラそうな〈スミマセン〉声掛けも理解できますが、
私達ヒトは、
もし○○~なら、、と ふと考え、そして次には、いや、もし●◇なら、
と続け、
あの時こうしておけばよかった、と後悔したり
もし、、被害に会ったら、、と不安を増幅させたり、
もし、宝くじに当たったら、と夢を見たり
怯えたり、
或いは、備えたり
仮定文を常に、色々に応用して、生きているもんですよね?

仮定文 失くしては、もはや生きていけない。  と、思いきや
そうでもないらしい、、

世界で使われている、多くの言語に、If に相当する言葉や、
仮定文があるのですが
この条件仮定文(?)のない言語もあるんだそうです。
ピダハンにおいては、過去も、未来も「無い」ので、
ifなんていらん、、「もし?はない」
彼らには、死、は本当に何気ない、当たり前のことであって、
特別視はしないし、恐れない。

エヴェレットの「ピダハン」は有名な書籍ですから、ご存じのnoterさんも
多くおられると思います。
私は、
中世ヨーロッパでの果てしない争いや、今も続くアフリカ中部の紛争を思う時、「もし」がどこにも存在しないような、
考える余地、が見当たらないような、荒野の様な人間の心を感じていました。
しかし、ピダハンの暮らす、「今」そのもの だけの世界を思うとき、
そのような心の「渇き」「嘆き」は感じません。
そして、
ピダハンの心象風景が、寧ろ
VRゴーグルをつけて生活する、少し先の私達の未来と近いような、
想像をしました。

今、と これからを生きる
若い世代の人たちは、ピダハンの心象と言語表現について、
どんな風に受け止めるのでしょうか?
「もし○●なら~」は、不要?
シンパシーを感じるのか、遠い世界と感じるのか、

もし、うかがえるものなら、
お聴きしてみたいものだ、と思う婆でした。

おさんぽでした。