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考えすぎることもあるんだなって

こんにちは、siroです。

たまに見る”考えすぎ”っていう言葉について、私はすごく違和感や不安を抱いていました。

というのも、
岡田斗司夫さんの著書、『スマートノート』を読んで以来、A4ノートに思考を書き出すっていうのを続けてきました。
(すっごくスローペースですが!)

そしたら、頭の良くない自分でも
悩みや不安、疑問がノートを通じて可視化され、消えていくんです。

だから私にとって思考とは、
”短絡性を回避するための最強兵器”
だと思えるまでに大きなものへとなっていきました。

そう感じていた私にとって”考えすぎ”とは、
”悩みすぎ”であって
むしろ”考えてなさすぎ”じゃろ!
って思っていました。


でも、思考による問題解決は、一つ制限があります。
それは、
”(所詮)自分で考えて答えが出せる範囲の問題しか解決できない”
ということ。
その”自分”が豊な人ならほんとに最強兵器ですが、
私にとってはちょっときつかったり。

大抵の悩みって、目を合わせた途端に崩れていくほど脆いものなんですけどねー。

たまに、向き合うと頭がおかしくなりそうな問題が湧いてきます。

頭がおかしくなる悩みとして、例えば

・何をしても無意味じゃん
・なんで人間だけが世界を独占してるの
・人(命)の価値って平等じゃなかったの
・人生は苦しみってよく聞くけど、核戦争で地球ごと消えたら幸せってこと?
・資本主義、能力主義って差別的よね


みたいな、これら(社会における暗黙の了解)の論理性を疑っても仕方がないのに考えちゃって抑うつ的になる、とか。

そういうのを考えるたびに人生の無意味感を体が覚えてきちゃって、何をするにしてもその考え方が先行してしまうっていう事態にも。

これがいわゆる”考えすぎ”で、
”盲目的に短絡性を回避し続けることによって起こる短絡”
みたいな感じでしょうか。


だから人は、仕事、学校とか趣味を設けて時間を潰し、
ないしはお酒やたばこ、SNSを使って今を消し、人生から目を背け続けることが大切なのかなって感じます。

みんなそれぞれ、無意識下に底なしの不安を抱えてて、
でもそれと目を合わせずに逃げ続けてるんですよね。

逃避ってすごく悪者っぽいけど、
逃避し続ける方がよっぽど健全です。

うつ病の患者さんは、一般の方より現実を客観的に捉えているそう。
すごい変な話ですが。

世の中は所詮幻想だから、客観的に考える意味がないと。



ただ、中途半端に考えてしまうことが危険なだけで、
もっともっと煎じ詰めいくと、開ける場所はあるというのもまた事実だと思います。

例えば、仏教みたいに。


だからとりあえず、ムキになって考えようとはせず、
人は感情を基に動いていることをしっかり理解したうえで、
感情を最優先に手入れする。
やっぱり考えすぎないことが大切なんですね。


Tiktokのバズった動画って、ほとんど意味がわかりません。
ほんとに大切なのはああいうことなんでしょう。



社会における暗黙の了解とかを考えるのって、毎朝政治経済のニュースを見て一喜一憂するのと同じぐらい、
あるいは自分の地元のチームの勝敗に一喜一憂するのと同じぐらい、
すっごくめちゃくちゃ失礼だけどナンセンスなのかなって思います。
(そういう人は絶対に必要だし、素敵なことですけど!)
自分が操れない対象に操られてしまうって、すごく危険なこと。

もっと自分の中で大切にしたい理念みたいなのを暮らしに据えて、
心持ちをミニマルに、クリーンにしておかないと拗れすぎてしまうのかなって思います。


私が大切にしたい理念として、
自分の抱く理想像を大切にすること
(自分を愛すること)
と、
世界を愛すること
があります。

”愛する”っていうほど、大それたものは期待してないですけどね。

あくまで淡々とした暮らしを基本に据えて
あわよくば彩りを添えてみるような。

これが私の思う、こじんまりした悦びのある豊かな人生かなって👓

守りたいものを守れるだけ抱いて、温めていきましょう。


thank you for reading〜👋


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