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人生は虚しい、されど世界は
金曜日、学校の行事で市内へ。
その勢いで、実家に帰省。
少し久しぶりに触れた地元は
見慣れた町なのにどこか新鮮で、自分の移ろいを感じさせられる。
それで過去を思い返しては、少しさみしくなったり。
私は、いつもの島もいいけど、地元の町がすごく好き。
お酒が有名な町で、故に居酒屋さんがたくさんある。
少し外れれば、ベットタウンらしい住宅街。
そんな、生活感、日常味に溢れる町。
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その場所は、私をただの”町に住まう一人の人間”に戻してくれる。
いつもの島ものどかでほんっとに素敵だけど、出歩いてもそんなに人が居ない。
だからか、自分の存在感がすごい。
世界≒自分 になって、小さなことに慌てふためく。
でも、こうして地元で歩くと
私が喜んでも落ち込んでも、いびつでもくだらない存在でも
世界には何も影響がなくて、ただいつもの世界であり続けてくれる。
自分の姿をした大きな虚像は、町のやわらかい外套の光に姿を無くし、
町を歩く実寸大の自分の小ささに気づいて、ほっとする。
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だから、地元の町が好き。
どんな艶やかで美しい街に住まおうと、この心地よさは消えない気がする。
心地よさといえば、町もそうだけど一番は家。
自分がいて、それが当たり前で、って
家にいる時は思わなかったけど、有難いことなんだなって。
家族という不思議な関係に感謝。
あと、小学生からの親友の大学受験があった。
私は2年後に就職するけど、みんなは今年に決まる。
ぼーっと過ごしてる自分にとって、大学受験って何かすごく現実離れしてて、おぞましいものに感じるし、
高専へ逃げてきて良かったのかなって安堵する気持ちもある。
一方で、そんな受験生たちとの差を想像しては
ちゃんと社会で生きられるのかなと不安になったり。
働くこと、受験、恋愛
これらは依然、おとぎ話だと思ってる。ふしぎ。
ってなことを感じながら、
友達と食べに行ったり街歩きしてゆっくり過ごした。
でも。
帰省したなら帰寮しないと留年しちゃう。
寮生活3年目、初めの頃に比べると、
心の波は瀬戸内海ぐらい穏やかになってきた。
でも、島から眺める瀬戸内海は、
私にとってはどこか淋しく、つんとしている。
そんなさみしさを感じたとき、私は確定で下記の思考パターンに陥る。
自分の人生という寂しさ、世界からの孤立感、淋しさ
↓
生きる悦びの消失
↓
感覚が生きる意味を失う=思考で生きる意味を見出そうとする
↓
論理的な生きる意味はない
→自分の人生の虚しさに溺れる
だいたいこんな感じ。
原因は、神経症的な性格と、メタ視点になりすぎなこと。
そんなメタ視点を追うことに答えは無い(悟り、みたいな難しい話になる)から、
趣味や学校など、日常でのイベントを敷き詰めて暮らして、
あわよくば理想を追ったり。
生きるをくっと、手元にもって来ないと。
頭じゃなくて、心で生きること。
感覚が悦びを感じられない状態は、これ以上ないほど虚しい。
だから、目標、使命感を見出して、没頭(視野を狭く)する。
論理的にはおかしな世界で、楽に生きるためには、感覚を癒すしかないから、自分のためにできることから、頑張って。
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されど、そんな姿も美しい。