スオミは言い訳をしない
「言い訳」ってあまり良くないと思っていても、やっぱり言い訳をしたくなる。「自分を正当化したい」「この場から逃れたい」と、御託を並べて奮闘している姿が愛らしく見えることを祈るばかりだ。
言い訳を一切言わずに、貫き通せたら良いなと思う。
さて、三谷幸喜監督の最新作『スオミの話をしよう』を観てきた。
(この記事はネタバレを含みます)
三谷幸喜監督が長澤まさみの才能にほれ込んで「長澤まさみという女優の代表作にしたい」というほどの映画だと聞いたので、一応劇場に見に行った。
代表的なレビューを見てみる。
どちらの意見も頷けるところが多い。脳みそ空っぽにして観れる良きエンタメではあるが、ミステリー要素を求めると俄然もの足りなくなる。
ひとつ興味が湧いたのが「スオミ」という人物が出来上がる生い立ちだ。
彼女の母親は3回結婚していることが、スオミが高校生時代の回想シーンで明かされる(スオミの母親役も長澤まさみが演じて、夢の共演(合成)と話題になった)。
「この子はね、どの夫とも仲良くなれるの。」と先生に話す母親の何気ない一言。おそらくスオミは、小さいころから何度も言われているだろう。
このシーンが示唆するのは「母親のせいで、スオミは相手の理想の姿を完璧に演じることができる娘になってしまった」ということ。つまりスオミの人格形成は母親の呪いであるのだと。その呪いから脱するために、姿を消し、狂言誘拐をしたのが物語の大筋だ。
しかしスオミは、自ら母親のことを言い訳にはしない。母親のせいだから、この生き方しかできないのだと、言い訳しても良いはずなのに。
ただただ「ヘルシンキ」に行きたかったと言う。
唐突に表れたヘルシンキ(一応、スオミの実父が外交官で、彼が好きだった街がヘルシンキという設定はある)に面を食らったのだが、「好きなもの」に夢中になることが、母の呪いを突破する方法なのだ。スオミにとってそれは、愛でもお金でも生活ではなく、ヘルシンキだった。母親の呪いを解き、新しい自分を見つける可能性がヘルシンキだった。
結果、どうなったかはぜひ映画を観てほしい。
まとめると、「スオミの話をしよう」は、スオミの周りの人たちが「言い訳」を延々と繰り返し、スオミ本人は言い訳もせずスパッと生きていく、そんな話だったように思う。
執筆:真央
編集:アカ ヨシロウ
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