たった3文字の真新しい扉 -noteを読む-
先日「なさじ」さんのnoteを読ませていただいた。
「道半ば」とは思わないだろう。
私もそこに共感出来た。
子育て中の親という立場では、娘の成人を見守るまで、という思いは強くある。
もちろんまだまだ見守っていきたいし、共に楽しんで行きたい(生きたい)。
しかし、私の人生だけとして単純に考えるのなら、今の私は、道半ばとは思わないだろう、と思えた。
なぜそう思うのか、漠然とした感覚なので、自分でもわからなかったのだけれど、「なさじ」さんがそこで触れておられた「目標型」と「展開型」という言葉に心が動いた。
と、頭の中に何か、新たな別の扉のシルエットがほわんと浮かんできた気がして、その輪郭を確かなものにするべく、幻で消えてしまわないうちに、私は慌てて手を伸ばした。
目標型と展開型
いろいろ検索先を回った中で、ザックリまとめてくれていたまとめサイトを参考文献として、こちらに紹介させていただく。
これを読むと、私も「なさじ」さんと同じように、(目標型ではなく)「展開型」で生きてきたんだ、ということがわかった。
今まで私は、
具体的な大きな夢・目標を持つか、持たないか。
それに向かって着実に計画を練って進んでいくのか、いかないのか。
人生の歩み方の違いは、各々のそこへの入れ込み具合だと思っていた。
私は、人生において、はっきりとした分かりやすい大きな夢を持って歩んできた人間ではない。
そのときそのときの個別の小さな夢や目標はあっても、私はまだ、はっきりとした大きな指標は見つからないでいる人間だと思っていた。
他のことにわき目も振らず、黙々と、着実に目標のために向かって積み重ねていく、それが出来る人がいて、大成していく人がいる。
でも私は、ある意味、欲張りというか。
1つのことをとことん極めたい、という欲ではなく、まんべんなくいろんなことを、ある程度楽しめる感じでいきたい、という欲が強いのかな、だから大きな目標は立てられないし、達成しづらいのかな、そう捉えていた。
だから、この「展開型」という考え方を知ったことは、私にとって今回、とても大きな意味があった。
心の中に、本当に真新しい扉がひとつ現れたのだ。
たった3文字の言葉の力
今まで、
自分はこれがやりたい!という明確な目標を持てること、それに向かって意欲的に取り組めること、そういうことにいつも向き合い、達成に向けて進んでいる人はすごいな、素晴らしいな、強いな、
そんなふうに思って、でも
私には、それは向いていないかもな、そういう生き方が出来る人と、出来ない人がいるんだな、自己を貫くって、体力がいることだよな、
そうも感じていた。
そんな「目標型」しか知らない世界で、それなりに小さな目標だけは持てていたし、環境や人とのかかわりの中で変化させながら生きていくのも、私らしいかな…
そう割り切って生きてきたところがあった。
しかし「目標型」という生き方しかないと思っていた世界に、「展開型」という生き方があったのだ。
私の生き方は、何も大きな目標を持てずに、大きな夢に出会えずに、何とはなしにやって来た、わけではなくて。
そのときそのときの環境や出会ったもの、人によって変化する中で、ときに寄り道したり、回り道したり、落ちている何かを拾って考えてみたり、別の道を歩いてみたり、それによって生まれた新しい道なき道を「展開」していったりして。
その過程で、実は、自分でも気がつかないうちに自然に、夢や指標を持って、それを叶えられてきていた、ということか。
「展開型」という、たった3文字で構成された言葉が、なんだろう、私の心の何かを、すっと持ち去ってくれた、というか、新たな空間を創り出してくれた。
それは、紆余曲折しながら年月をかけて積み上げている「自己肯定感」というものによって「自分はこれで幸せだ」と感じている私を、さらに客観的に後押ししてくれる、暖かい言葉だった。
自分が漠然と思っていたことに、客観的な名前があったのを知った、ということなのかもしれないが、「漠然と自分の中だけにあったものに名前がつく」、それだけで、自分の世界から外の世界に繋がれた安心感が、こんなにも生まれる。
そんなことにも気づけた気がする。
影響を受けることが好きだ
目標達成のために、自己を貫くために、他のものを出来る限りシャットアウトする勇気を持ち、それが出来る強さを持つ「目標型」にはなれないけれど、なれないからといって、環境や周りに「仕方なく」流されている、というわけではない 、と私は思っている。
これは「展開型」の特徴なのかもしれないが、環境や周りの人、そこからの影響を受けることに、どこか興味を持っている、というか、どこかしら楽しんでいる、というか。
周りとの関係、それを含めて自己と捉えているというか。
影響を受けることが好きなのだと思う。
もちろん、強すぎる影響や刺激、不快な環境や人の存在というものも当然あるし、傍から見て危険を察知すれば近づかないし、たとえ足を踏み入れてからでも、そういう道からはサッと踵を返す。
けれど、影響を受けてこそ、自己が見つめられるし、その自己の相対的な位置、たくさんある中の一意見だという認識も得られる気がする。
noteは、いったん自分の中にある気持ちや言葉をアウトプットし、再確認したり、客観しするのに、とてもいい場所で、楽しい。
でも、書くだけではなく、それ以上に私はいろんな人のいろんな文章を読ませてもらっている。
そして、いろんな影響を受ける。
note 言葉の一期一会
今回「なさじ」さんのnoteを読まなければ、私は、この「展開型」という言葉には、まだ何年も辿りつけなかったかもしれない。
そう思うと、noteでの言葉の一期一会だなぁ、と思う。
今どきに言うと「エモい」。
noteを書き始めて2か月弱。
私がnoteに上げている言葉は、まだまだ自分から離れていないところで、自分について話している言葉ばかりだ。
言葉の一期一会を提供できるような代物ではない。
でも「言葉の一期一会、エモい、と思ってもらえるような文章や言葉を書きたい」、そう思った。
これも「展開型」による、影響を受けてから持った小さな夢だ。
なんだか楽しくなってきた。
これからもnoteで、私は私の人生の一部を展開していこう。