「頑張る」という言葉、要る?要らない?
ここ4〜5年、「頑張る」ということばをほとんど使わなくなった。
学生時代や会社員時代には、無意識に「頑張る」ということばを発していたように思うし、他人からもそう言われていたのだと思う。
しかし、「頑張る」ということばの意味と必要性を考えたとき、私の中で、”要らないかも” と判断したのだった。
『頑張る』ということばを辞書で引くと、忍耐して、努力しとおす。気張る。
などと出てくる。
例えば、相手に対して「頑張って〜!」というとき、そこには”応援したい”という気持ちがあったり、相手への友情や愛があるのだと思う。
だけど、それと同時に、無意識にこちらの「期待」のようなものが入り混じっているのはないだろうか。
受験に成功して欲しいから、「頑張って!!!」
いい結果を出して欲しいから、「頑張って!!!」
相手のことを応援しつつも、
”私が思う「良い」結果になるために、行動してくれるといいな”
と実は、少しばかりは思っていたりするのだ。
別にどっちでもいい、って思っていたら、そもそも「頑張って」とは言わないだろう。
そして、こうとも思う。
”頑張る”って、そもそも不自然である、と。
なぜなら、ものごとがうまくいくときって、たいてい力を抜いているときだから。
出産のときでさえ、「頑張れ」という掛け声はかえって負担になることがある。身体に力が入れば痛みは増すし、赤ちゃんが出てきてくれるのが遅くなる。
いかに呼吸に意識を向けて、力を抜くかが大事なのだ。
「頑張る」「頑張れ」は、ときに、本来必要のない余計な力を入れさせてしまう言葉になってしまったりする。
忍耐力を発揮して出した結果と、リラックスして望んで出た結果。
どちらも同じ結果だとすると、「後者」の方が自然で望ましいだろう。
力を入れて「頑張る」のではなく、
”力を入れなきゃ出来ないこと”するのを辞めていく。
という選択も必要になってくる。
「無理のない自分」
「相手に力を入れさせない」
そんな在り方が、自分も周りも”自然体”でいられる空間を作るのではないだろうか。
力を入れて頑張る自分から、自然体な自分へ。
もっともっと力を抜いてもいいのだ♪