【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#1-10
後で知った事だが、会合の担当者が僕が癇癪を起こして出て行ってしまったことを兄に連絡し、兄は無理やり残業を切り上げて僕に会いに来てくれたのだった。
もう21時近かった。僕は夜中から午前中にかけて仕事をするので、せめて22時には就寝するようにしていた。それは兄も知っている。
兄はコンビニで飯を買ってきてくれた。僕は酒を呑まないのでジンジャーエールとオレンジジュースも入っていた。ジンジャーエールは僕が好んで飲む飲み物だ。
スタンドの灯りを点け、床に買ってきたものを並べる。僕の家で食事をする時のいつものスタイル。
「遅い時間にすまない。すぐ帰るから」
「ううん…」
僕は兄が買ってきた弁当を平らげた。
「会合で喧嘩になったのか?」
「喧嘩したわけじゃない。俺が両親から愛されなかった理由を考える話だったのに、兄ちゃんに対するコンプレックスがあって、しまいには兄ちゃんの愛情が偽物だって言われた。それで腹が立った」
「そうか…。よりによって俺がいない時にそういう話題になったのか…」
「それで、家に帰ってきて俺は考えた。家族に対してどんな感情があるのか」
「…話してみろ」
僕はジンジャーエールを一口飲んで続けた。
「僕が羨ましかったのは、兄さん自身に対して。兄さんのことを物心着いた時から尊敬していた。あなた自身の頭脳、肉体、威厳、優しさ…。僕が知った時はもうあなたは完成されているように見えた。庭で弓を引く姿を見て親父よりも威厳があると感じた。一緒に風呂に入った時に兄さんの身体を見て、やはり親父よりも美しいと感じた。
つまり僕の中では兄さんは家族で最も威厳のある存在なのです。そもそも親父は僕に対し、何か言葉をかけたことがあったでしょうか? それくらい互いに希薄な存在です。そんな人から愛情を受けたいなどと思いません。つまり僕の中では兄さんが一番であり、その兄さんからは真の愛情を受けていたのだと僕は理解しています」
口調が昔に戻っていたが、僕は気づかなかった。
「…母親に対してはどう思ってる?」
兄は穏やかに訊いた。
「…何も考えていない、ただのうるさい人です」
「母親がうるさいのは、俺のせいだとは思わないのか?」
「なぜ?」
「彼女は俺と隆次をよく比べていたろう? あぁいう物言いはコンプレックスを作る一番の要因だと思うが。カインコンプレックスともいうだろう?」
「僕はそうは思っていないです。なぜなら兄さんは両親に溺愛されていたとしても、ちっとも幸せそうではなかったからです。だから羨ましいと思ったこともないです」
兄は目を細め、少し苦しそうな表情になった。
「…さすが隆次だな。お前の目には全て見えていたんだな」
「だから兄さんのせいになるというロジックがわかりません。兄さんが優秀なのは事実であって、羨ましいとは思うけれど、妬ましくは思いません。だって兄さんと僕は家族でありながらも違う個体だから。それをどう扱うかの問題であって、母さんはそれを引き合いにただ感情的に当たり散らすだけの、頭の悪い人だと思っています」
僕の話を聞いて兄は笑った。そして僕の頭を抱きかかえた。
「…俺たちはとんでもない家に生まれたな」
「…それでも僕には兄さんがいたことが幸せです。会合に参加して、参加者の中には本当に孤独な人もいて僕は恵まれているんだと気づきました」
「でもその人だって今は会合に参加しているんだろう? そこに来る余力があるということは、まだ孤独じゃないってことじゃないか?」
「参加しているという意味では僕も同じで、でも彼は僕より孤独です」
「比べるな。あの場にいる人たちは仲間だ。そうしたら孤独ではない」
「仲間なんて気軽に言えるのですか」
「隆次。それはお前が突き放しているだけだ。寄り添えとは言わない。でも、突き放すな」
「どういうことですか。どうすればいいんですか」
「その人の話を聴くんだ。否定したり、突っぱねたり、"自分の場合は~" と置き換えたりしないで、その人の話をその人が感じたようになって聴くんだ。それだけでいい。称賛も反論もしなくていいから」
「聞いていますよ」
「いや、聞きながらお前の頭の中では色々考えている。"俺はこいつよりマシだな" とかな。それは聴いているうちには入らない」
「…」
「難しいかもしれないから、次回は一緒に行くから。その時やってみようじゃないか」
兄は僕の頭を撫でて「隆次ならできるからな」と言った。
子供の頃から、兄の口からだけ聞いていた言葉。
兄は自分の腕時計を見て申し訳無さそうな声を出した。
「あぁ、すまない。すっかり長居してしまった」
「いえ…」
兄の腕時計は見るからに安っぽそうなものだった。
あぁそうか、僕がもらっちゃったからだ。
僕は家で仕事をするから本当は必要ないけれど、毎日兄からもらった腕時計をはめている。
だから家にあった時計は捨ててしまった。そっちが必要なくなったからだ。
兄にはもっといいやつ、ちゃんと返さないといけない。
兄は微笑んだ。
「自分の中で時が戻ると言葉遣いも戻るんだな。まぁいい。また来週だな」
「あ…うん…」
「何かあればすぐに電話しろよ。いつでも遠慮なく。すぐに出られなくても必ず折り返すから」
「うん…」
兄は帰り際、玄関で靴を履きながら僕の「トリセツ」を作ろうと言い出した。
「トリセツ?」
「そうだ。自分の取扱説明書を作り共有することで、自分のことをわかってもらい、互いが嫌な思いをしないで済むようにするんだ」
「誰のために?」
「お前が接していく全ての人に、だよ」
「そんなの、たかが知れた人数しかいない。そこまでする必要性を感じない」
「フッ…まぁいい。そんなにすぐにやれという話じゃない。じゃ、また来週」
けれど僕は「トリセツ』の話はすぐに忘れてしまった。
#2-1へつづく