
【連載短編】猫と、ありふれた孤独 #2
野島遼太郎…主人公。43歳。妻と4歳の娘・2歳の息子を日本に残し、ベルリンに短期単身赴任中。
ゾフィア…ポーランド出身の二十歳の大学生。休学中。
ミア…生後2~3ヶ月の子猫
🐾🐾🐾
ゾフィアとミアの姿を見なくなって四日目。
公園で、ミアと目が合った。
俺と認識すると真っ直ぐに駆け寄ってきた。初めて会った時のように。
「ミア!」
足元まで駆け寄ってきたミアを抱き上げる。
「どうしてた? ママは?」
そんなことを訊いたって答えてくれるわけがない。
ただ、ドイツの飼い猫はマイクロチップの着用を義務付けられている。ベルリンでは飼い猫の管理は比較的厳しいため、こうして一匹でウロウロしていると通報されることもある。
そうか。であれば、いざとなれば警察にでも持ち込めば飼い主情報がわかる。
が、そこまでするのはさすがに憚られた。
「お前、自力で ママのところに帰れるか?」
そう言って地面に下ろすと、ミアは健気にトコトコと歩き出した。その後をついて行く。
ほんの5分も歩かないうちに、クリーム色の壁のアパートの前で立ち止まった。
「ここか?」
とはいえ入口はオートロックになっており、部屋番号がわからないから中には入れない。仕方無しに住人がやってくるのを、ミアを抱えてしばらく待った。石畳から冷気がしんしんと脚を駆け上がってくる。
やがて自転車に乗った中学生くらいの少年が、アパートの前で降りた。
「君、ここの住人?」
「うん」
「この猫を知ってる?」
少年は「知ってるよ」と答えた。「ゾフィーん家の猫でしょ」
ゾフィーとは、ゾフィアのドイツ語の愛称だ。
「うん。彼女は今、家にいるかな。この猫、ひとりで公園を歩いていたんだ」
「おじさんはゾフィーの知り合い?」
なかなか聡明な子だと思った。「知り合いだ」
じゃあついておいで、と少年はオートロックを解除し、中に入れてくれた。
「ゾフィーの部屋は2階の真ん中のあそこ、だよ」
中庭に入り、ご丁寧に少年は指さし教えてくれた。
「Danke.(ありがとう)」
🐾
ドアをノックしたが応答はない。それでも何度か叩き続けると、しばらくして中で人の気配がした。
「ゾフィア、僕だ。リオだ。ミアを公園で見かけて保護した」
ドア越しに呼びかけると、やがて鍵の開く音が響いた。
「ヘル リオ…」
大きく目を見開いた、頬のこけたゾフィアがドアの隙間から覗いた。酷く血色が悪い。
「ミアがあの公園にひとりで来ていた。ママのところに帰れるか? と訊いたら、ちゃんとここまで連れてきてくれたよ」
それでもまだ信じられない、と言いたげに落ち窪んだ大きな瞳を震わせた。
「具合、悪くしていたって? これは公園にいつもいたおばあさんが教えてくれたんだが」
ゾフィアは我に返ったように「寒いし、良かったら中へ。狭くて恥ずかしいのですが」と、部屋の中に招き入れた。一瞬ためらったが、一人暮らしで具合も悪ければ不自由なこともあるだろうと思い直し、中へ上がった。
彼女の髪はしっとりとしなだれ、頭皮からはかすかに脂の臭いがした。
「持病の喘息が少しひどくなったところに、胃腸の調子も悪くなってしまって。でも今に始まったことではないので…」
かすれた声でそう言いながら廊下を進むゾフィアの、正面の窓からの明かりで白いシャツの背中が透け、身体の線が見えた。思った以上にか細い。こちらの女性特有の下半身の張りもほとんどない。
「随分薄着なんだなと思ったら、寝汗をかくからか」
「えぇ。ごめんなさい、何日もシャワーを浴びていないの。臭うでしょ」「いや…」
部屋は左右に二間続いていて、右手にベッドルーム、左手にダイニングキッチン。そのダイニングにはソファと小さなテーブルがひとつ。全く狭くはない。部屋の色彩はほぼ白、物も極めて少ない。カバン一つで収まってしまうかのようだ。
「寝込んでたんだろ?」
「全く動けませんでした」
「医者にも行ってないのか」
「喘息の薬は蓄えがいくらかあるから、それでしのいでいました」
「胃腸が悪かったって、食事は?」
その言葉に振り返ると、困ったように微笑し「何を食べても、戻してしまって」と答えた。
「何か買ってこよう。買い物も行ってないんだろう」
「大丈夫。熱も少し下がったし、歩けますから」
ゾフィアの額に手をあてると、彼女は息を呑んだ。まだ微熱はあるようだ。目の下の紫色のくまが目立つ。
「無理しないで、俺が買い物してくるよ。欲しいもののリストを書いてくれ。それとオートロックを解除するIDも」
IDを訊いたのが下心と取られたら気まずいなと思ったが、それよりもこのままだと自力では何も出来そうにない彼女を、どうにか日常に戻す必要があると考えた。
彼女は困ったように眉を下げたが、やがてメモにペンを走らせた。財布を取ろうとしたところを制して、メモを奪いひとまず外へ出た。
少し歩くとドラッグストアとスーパーがあった。そこで胃腸薬に咳の薬に解熱剤、食料に飲料水、着替えのシャツなど、頼まれていないものでも備蓄として必要そうなものを買い込んだ。
🐾
「ヘル リオ、本当にすみませんでした」
ゾフィアはシャワーを浴びたようで乾かしたての髪が肩ではね、ざっくり編まれた薄紫色のニットに着替えていた。返って気を遣わせたか。
俺は黙って頷き、買ってきたものを冷蔵庫に詰めたり、棚に並べたりした。
「こんなに」
「頼まれていないものも入っているけど、あって困るものでもないと思うから。洗濯物があればまとめておいてくれ。後でランドリーに持っていく」
ゾフィアはまた申し訳無さそうに俯いたが、手持ち無沙汰を振りほどくように棚に手を伸ばした。
「コーヒー、飲みますか?」
「いや、いい。それより今は食欲はあるか?」
彼女は「お腹は空いているのですが」と言いながらも弱々しく首を横に振った。キッチンには俺が立ち、湯を沸かした。
「これ、知ってるだろう?」
スーパーの袋から、リンゴと洋梨の絵が描かれたKisielの袋をかざすと、ゾフィアは「もちろんです!」と目を輝かせた。
Kisielはポーランド製で、日本で言うところの葛湯のようなものだ。以前訪れたポーランドで、話を聞いて買ってみたらまさに欧州版葛湯といった食感で、懐かしさも相まって少し感動したものだった。
「子供の頃、よく食べていました。懐かしい」
「日本にも似たような飲み物が古くからあるんだ。胃を刺激することもないだろうから、これを口にするといい」
マグカップに粉を入れ湯を注ぎ、スプーンでかき混ぜると、徐々にとろみがついてくる。フルーツの甘い匂いがたち込めた。
ゾフィアは買ってきたミルクを猫皿に注ぎ床に置くと、ミアは夢中で舐め始めた。
「ミアも腹減らしていたか」
「私がこんなんじゃ、飼い主失格ですね」
ゾフィアにマグカップを渡すと、暖を取るように両手で包んだ。スプーンで一口すくい口に運ぶと「美味しい。懐かしくて涙が出そう」と頬を緩めた。
「お腹、大丈夫そうか?」
「えぇ、これなら」
「身体が温まれば咳も幾分和らぐだろう」
「日本にも似たような飲み物があるって言ってましたね。日本は優しい国なのかな。ますます行ってみたい」
ゾフィアは一瞬俺の目を見たが、すぐにカップの中に視線を戻した。
「毎日、あの公園で俺のことを待っていたんじゃないかって、その、いつもベンチにいたっていうおばあさんが教えてくれた」
ごめん、と言おうとして、謝る事が何の意味をなすのか考え、咳払いひとつして誤魔化した。
「クリスマスは日本に帰るって、話していなかったかな」
「聞いていたと思いますが、公園の散歩は日課でしたから、ヘル リオがいようがいまいが、関係ありません」
「なら、いいんだ。でもベルリンはしばらく低温注意報が出ていただろう。やめておけばいいのに。それで喘息が悪化をしたのだったら…」
「最近、調子が良かったので、勝手に吸引をやめていました。そうしたらやはりまた咳が酷くなってきてしまって」
そこで言葉が途切れた。暖かい部屋の片隅で、腹一杯になったミアはソファの上で毛づくろいをしている。
「どうしてミアは外にいたんだ」
「外、歩きたいかなって思って。出してあげたんです」
「ベルリンでは放し飼いはダメだって前にも言ったよな? 通報されたかもしれない。それ以前に子猫なんだから、事故にでもあったら…」
「確かに迂闊でした。でも、猫は人間よりもずっと野生の勘があると思います。それにミアだけでも、あなたに逢いたいかなって、思って。まさかあなたをここまで連れてきてくれるとは思っていなかったけど」
そうしてゾフィアは目を合わせたが、すぐに逸らす。先程から彼女はそんな仕草を繰り返した。
ためらっている、もしくは、振り払っているかのように。
ミアはするりとソファから降りると部屋の隅に移動し、寝床であろう毛布の上で丸まった。しばらく眺めていると、寝息で小さな身体が上下し始めた。夢でも見ているのか、時折小さな耳をピクピクと動かしている。
「あのコもあなたに会えて、ホッとしてぐっすり眠っちゃたんだわ」
あのコも。
胸の内側に寄せたさざ波が少しづつ、うねりを強くしていく。そう、嵐の前触れだ。
「きみもぐっすり眠れそうか?」
「咳さえ収まれば」
「そんなに酷いのか」
「今はそれほどでもないです」
そう言いながらも、時折ぜいぜいと咳を漏らした。
「食事も用意しておこう。Suppe(スープ)だったらいけるか?」
ゾフィアは頷いた。俺は再びキッチンに向かった。
「横になっていたらいい。まだ身体が疲れるだろうから」
「ヘル リオ、お料理出来るんですか」
ゾフィアに背を向けていることをいいことに、俺は肩を竦めつつ曖昧に笑みを浮かべた。
トマトクリームスープと、蕎麦の実を茹でたもの、牛乳と混ぜて作るマッシュポテトを用意した。どれもインスタントで、少し手を加えるだけの手軽に出来るものばかりだから、料理とは言えない。独身時代は一人暮らしをしていても、ほぼ料理なんてしなかった。
「そうだ、大事なことを忘れていた。蕎麦のアレルギーはあるか?」
「蕎麦? ないです。卵も牛乳も大丈夫だし」
「そうか、良かった…。迂闊だったな。最初に聞いておくべきだった」
「Buchweizen(蕎麦の実)…ポーランドではKaszaといって、むしろドイツよりもメジャーですよ」
結局起き上がってきたゾフィアはやはり懐かしそうにそれを眺めた。
「そうか、そうだったな。スラブ圏内ではメジャーなのかな。日本ではこれを挽いて捏ねて、細く切って茹でて、ヌードルにして食べるんだ」
「へぇ…ベルリンでも蕎麦ヌードルレストランがありますかね」
「どうだろう」
時計に目をやると18時を回っていた。すかさずゾフィアは
「ヘル リオも、良かったら食べて行きませんか。あなたも食事はお一人ですよね」
その誘いは断るべきだ、と理性は忠告する。
一方で、俺が訪れることなく放置されていたら、一人ぼっちの彼女はとんでもない事になっていかもしれないという思いも込み上げる。
躊躇っている俺にゾフィアは「食事は誰かがいてくれた方が進みます。一緒に食べてくれませんか?」
と、はにかんだ。
あどけないミアの寝顔が目に入り、Okeyと答えた。
#3へつづく