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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#3-4

触れている肩がほんのりと温かいと感じていた。
でも僕の身体は石のように固まっている。緊張しているのだと、初めは思った。

「あ、もうこんな時間。隆次さん、仕事に備えて休む時間ですね」

部屋に時計がないため、香弥子さんはスマホに表示された時間を見て言った。20時半だ。

「そうですね」
「また来ます」

身支度を整えて玄関を出る。僕はいつも外に出て通りまで彼女を見送る。

* * *

香弥子さんはムスリムだから、婚前性交はダメだ。一応は。
もちろん香弥子さんは大人になってからムスリムになっているわけだから、男性経験がないわけではないだろう。

でもそれ以前に僕は、彼女に対して性欲が湧き上がらなかった。
あれから彼女と寄り添うことが増えたが、僕の身体は全く反応しない。

それは魅力がないとか好きではないとか、そういうことではない。
彼女が高潔に思えて、欲情しないような気がしている。
そして僕にとってはあらゆる意味で美しすぎて、恐れ多くて触れることさえ躊躇ってしまう。

若い頃過ごしたアメリカで散々と荒んだ性欲をぶちまけてきたせいもあるのだろうか。
兄にまで抱いたその欲望の罪と罰なのか。

そうだ、きっとそうだ。
僕は兄のことを神のようだと言いながら、あの頃は欲望を抱いた。

冒涜だ。

香弥子さんはそんな僕を戒めるために現れたのではないか。
仮に僕がムスリムになって彼女と結婚ができるようになったとしても、僕たちの間には望むものは何も授からず、むしろ今と何も変わらないのではないか。

理想的に思い描く未来が訪れてくれない気がした。

僕は暫くそのことを誰にも告げなかった。

* * *

年度替わりの春が訪れ、香弥子さんの仕事が忙しくなって会える日が減った時、僕は明らかに寂しさを感じていた。
電話やメッセージでは毎日やり取りをしたが、僕はあのバラの香りを側で嗅ぎたかった。それはイランのローズオイルだといつか教えてくれた。

香弥子さんと付き合うようになってからは兄も遠慮しているのか、会うことが少なくなっていた。木曜日の会合にもついてこなくなった。その代わりに週に1度、電話で様子を伺ってくる。

『そうか、愛しい彼女に会えないなんて、そりゃ辛いだろうな。まぁ年度またぎはどこも忙しいから』
「俺の仕事はあまり関係ないから、初めてそんな煽りを食らった感じだ」
『じゃあ久々に俺が遊びに行こうかな』

心なしか兄はウキウキしたような声で言った。

「いいよ、今から?」
『今日はもうお前にとっては遅いだろう。明日行くよ。どうだ?』
「わかった」

* * *

そんなこんなで久しぶりに僕の部屋で2人で飯を食うことになり、兄は会社の近くで見つけたというハラル料理のテイクアウトを買ってきてくれた。僕はまだムスリムにはなっていないけれど。

そんな兄は酒を飲んだ。その日は米焼酎か何か、日本の酒を持ってきていたと思う。氷がないからそれをストレートで飲んでいく。水か、と。

僕は最近はもっぱらジャスミン茶だ。ジンジャーエールは糖分が云々、と香弥子さんに注意されている。

兄弟でこのアルコールの免疫の違いは何なんだろう。
両親はどうだったかなと思ったが、思い出せなかった。

いつものようにスタンドの灯りだけの薄暗い部屋で、床に直接食べ物を並べて、胡座をかいて飯を食った。僕はBGMを流そうとスマホを手にした。

「今年に入ってからサブスクで音楽を聴いているんだ。兄ちゃんが昔よく聴いていたThe BeatlesとかQUEENとかoasis辺りを」

そう言ってThe Beatlesの『Strawberry Fields Forever』を流した。

兄は目を細めると、暗い窓の外を遠く見た。

「あの頃のヒリヒリした毎日が甦るようだな」
「ヒリヒリとは?」
「忌々しさというか」
「でも好きで聴いていたんでしょ?」
「当時はな」
「今は嫌ってこと?」
「良くも悪くも、音楽は時を戻すからな」
「あ、それ、俺も思った」

僕はモスクで瞑想していた時に、頭の中で突然The Beatlesの『Across The Universe』が流れ出したことを話し、それがきっかけでサブスクを契約したことも話した。

「その歌、確か仏教かヒンドゥー教の礼拝用語が出てこなかったか? 異教が脳内再生されるなんてさすがだな」
「まだあの時は俺の中では神とは一緒くただった」
「そもそも日本は八百万の神々の国だからな」

僕たちはしばらく黙り込んだ。兄は酒のペースが速くなる。
僕は不意に言った。

「そうだよ、あれだけ子供の頃UKロックを聴いていたのだから、留学はアメリカじゃなくてイギリスにすれば良かった。コカ・コーラより紅茶の方が品があるし。野島の家の人間ならそれくらいわきまえれば良かった」

僕がそう言うと兄は吹き出した。

「わきまえようなんて冗談でも思うなんて意外だな。コカだろうが紅茶だろうが、どっちにしたって異次元にぶっ飛ばされることには変わりない」
「英語だってイギリス英語の方が慣れていた」
「リバプールやマンチェスター訛りが英語の先生に適していたか疑問だな」
「兄ちゃんはあれだけ聴いてたのにギターはやらなかったんだね」
「弾けたらカッコいいなと思った時期もあったけど、ガラじゃないとも思っていたからな」
「嘘だ。そんな風に思うはずない。何やったって俺は万能で無敵だと思ってるくせに」

兄は苦笑いを浮かべた。

そしてまた窓の外を遠くを見つめしばらく黙り込んだかと思うと、流れ出した『Don’t let me down』に合わせて口ずさみ始めた。

「”がっかりさせるな” って、俺に対して言ってる?」

僕が訊くと兄は笑いながら「You're never let me down, never」と言った。

「特に好きな歌なんだ。アレンジもメロディも歌い方も。それに…」
「それに?」
「それに、最高に激しいラヴソングだ。『Oh! Darling』と並んでな」
「ラヴソングが好きだとは意外だった」
「ラヴソングが好きなわけじゃない。この2曲は振り切ったラヴソングだからいいんだ」
「嫁に歌ってやれよ」

そう言うと「俺たちはジョンとヨーコじゃない」と兄は言った。

「そりゃそうだけど。でも振り切るくらい愛してるんだろう?」

兄は急に笑顔を引っ込め、冷めた目つきになった。

「ジョンとヨーコのようなカップルだったら良かったかもな」
「…どういう意味?」
「ジョンとヨーコはシンプルで強いイメージ。俺たちは複雑で弱すぎる」
「複雑? 弱い?」
「いや…何でもない。比べる方が浅はかだ」

そう言って兄は滑稽そうに笑い、遠い目をして呟くようにポツリと言った。

「夏希の方が『Don't Let Me Down』って言いたいだろうな、俺に」
「どういう意味だよ…」
「もういい。この話は終わりにしよう」

腹落ち出来ずにモヤモヤしたが、終わりと言われたので話題を変えることにした。

「兄ちゃんはドイツよりイギリスが似合ってたと思うな」
「イメージだけで決めるな。ドイツであるには訳があるんだから」
「そりゃそうだろうけど」
「そういえばThe Beatlesはドイツ語でも歌を出していたな。確か『She Loves You』が『Sie Liebt Dich』で、『I Want to Hold your Hand』が『Komm, Gib Deine Hand』と言うタイトルで」

兄がスマホで調べながらそう答えた。

「初期のThe Beatlesは歌詞が単純だから、訳しやすかったのかな?」
「実際はビジネスの事情だろうけどな」

そうしてしばらくまた互いにBGMに耳を傾けた。兄がさっき好きな歌の1つに挙げていた『Oh! Darling』が流れると、再び兄は合わせて歌い出した。

「俺にじゃなくて嫁に歌ってやれってば」

そう言ってもニヤリとするだけ。もうだいぶ酒も入っているはずだ。

歌が上手いのかはわからないが、サビのシャウトはなかなか切なかった。

義姉はどれだけ愛されているんだろうと思う。

そして僕は…どれだけ愛することが出来るだろうか。





#3-5へつづく

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