【掌編】夢
暗闇だ。
何も見えない。
水が滴る音が微かに聞こえる。足の裏はひんやりと冷たい床に触れている。
ここはどこだ?
右手に何か摑んでいる感触がある。冷たくて硬質なもの。
ナイフだ。
弟から取り上げた物だと直感する。アイツが持っていると自分を傷つけて危ないから。
ナイフの刃は白金に輝いている。
美しい。
闇の中だというのに浮き上がるような輝きを放つ。
あぁ、これは夢の中なんだろう。俺は夢を見ているんだ。
それにしても刃の輝きは美しい。弟の気持ちがほんの少しわかる気がした。この輝きに囚われてしまうんだ。
自分の白い左腕が視界に入る。
闇の中のはずなのに光を感じる。さすが夢だなと思う。
刃先を左手の手首にあてがい、斜めに肘までゆっくり引いてみる。
すぐにぷっくりと液体が盛り上がると、腕を伝い流れ落ちる、紅。
紅?
暗闇でなぜ分かる?
それに夢は白黒じゃないのか?
背中に壁がある。ずるずるとしゃがみ込む。
尻が冷たくなる。濡れているのか。水が滴る音がしているのはそのせいか。
しかし痛みはない。やはりそうだ。当たり前だ。夢なんだから。
だんだん眠くなって目を閉じる。夢の中でも眠くなるんだな。
再び、暗闇。
水の落ちる音は相変わらず聞こえている。メトロノームのように規則正しい。
心地良い。
いつかのメロディが遠くで鳴っている。細身で頼りない体つきをした若い男が奏でる、あの日のメロディ。
それもまた、心地良い。
まるで総集編みたいだな。人生の。
すうっと、軽くなってくる。心も身体も。真っ暗闇だと言うのに。
いいじゃないか。こんな気分になるのは久しぶりだ。解放感というか。清々しい。
音楽も水の音も、耳ではなく脳に直接響いてくる。
愉快だ。
それなのに。
女の叫び声が、俺の安寧を切り裂いた。
耳障りだな。やめてくれよ。
朧げに浮かび上がるのは妻の姿だ。何しているんだここで。
喚くなよ。
それより俺は今、何をしているんだ?
眠りたい。眠いのに。
みんな、深く、おやすみ。
END