食事と音楽と男と女 #2
何度か店に通ううちに、軽く常連さんとして扱ってもらえるようになった。
それは名前を覚えてもらったり。
それは食事の後のプチデザートがサービスされることだったり。
中村くんも「いらっしゃいませ」ではなく「こんばんは」に挨拶が変わった。
カウンターの向こうの佐橋さんも、時折り笑みを向けてくれるようになった。
「Le petit rubis」(ル・プティ・ルビ)は料理担当の田村さんがオーナーで、佐橋さんはオーナーの知人とのことだった。
佐橋さんは昼間は別の仕事をしているが、自らがフランス好き・ワイン好きなのもあって、店の手伝いをしているという。
中村くんは大学生のアルバイトで、シフト率が最も高いという。確かに中村くん以外にも何人かアルバイトらしき人を見かけたが、高確率で彼がいた。
1杯目のスパークリングワインをカウンター越しに受け取る頃は、まだ店がそれほど混んでいないことが多いので、飲みながら佐橋さんと少し話ができた。
「佐橋さんはホールには出ないんですか?」
「僕は愛想がないから、無理なんですよ」
「そんなことないと思いますけど」
「中村くんには敵わないから」
私は笑って「確かに、そうですね」と言うと、「そこは否定はしてくれないんだ」と彼も笑ったので、そこでまたひとつ、心にストンと落ちていったりした。
ある日は仕事の話をした。
「昼間の仕事ってどんなことしてるんですか?」
「僕はSE(システムエンジニア)なんです」
「えー、SEって忙しくないんですか? こういうお店を手伝える余裕がなさそうなイメージですけど」
「僕は個人事業主で、今は保守系メインなので時間作りやすいんですよ。もちろん案件次第では朝も夜もなくなってお店に出て来られなくなる時もあるけど」
たいてい、私の質問に答えてくれるだけの会話が多かったけれど、段々と私のことも訊かれたりした。
「紗織さんはどんな仕事なんです?」
「企画営業です。商品企画の他にも電話応対とか、営業マンのサポートとか」
「それも大変なお仕事でしょう。ストレスとかたまりませんか?」
「なので、こうしてここに来たりしています」
そう言うと、彼は微笑んだ。
初めの頃より、本当に笑顔が増えた。
愛想がないなんて話していたから、嬉しかった。
人見知りなのかもしれないけれど。
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お店に通うようになって3ヶ月近く経った。
梅雨も明け、うだる暑さの日々がやってきた。
中村くんは大学が夏休みに入って、店の休日でもある日曜以外はほとんどシフトが入っているらしい。
「僕、すっごく暇なんです!」と明るく笑った。
「お金貯めて、バックパックの旅に出るんだってさ。だから来年はきっといないよ」
キッチンからオーナーの田村さんが苦笑いする。
「世界のワインを、ガブガブ飲んできますよ!」
佐橋さんも本業が忙しいのは秋から年度末にかけてが多いようで、私が店に来るようになったタイミングでは、比較的時間の都合がついているとのことだった。毎日いるわけではないそうだが。
その日の私は珍しく残業になり、店を訪れることが出来たのは、混み合った時間になってしまった。
ドアを開けて中の様子を見ると、カウンターも1組お客さんが座っている。
中村くんが出てきてくれたので「今日はいっぱいかな?」と訊くと「お一人でしたら余裕で大丈夫ですよ!」と答えてくれた。
まるで指定席のように、カウンターの隅が空いている。そこに通された。
佐橋さんも「お疲れ様です」と声をかけてくれた。
「今日は遅いですね。残業でした?」
「はい、珍しく」
「いつものでいいですか?」
「はい」
スパークリングワインと、果物をあしらった、ちょっとしたサラダ。
この日はグレープフルーツとスモークサーモンを合わせたサラダだった。
それにバゲット。程よく温かい。
「ありがとうございます。いただきます」
小さな、幸せな瞬間だな、と思う。
BGMが耳に入る。今夜は大橋トリオが流れている。
フレンチのビストロだからって、シャンソンとかフレンチばかり流さないところがいいな、と思った。
結局、閉店時間まで食事がかかってしまい、初めてラストまでいた。
ラストオーダー以降はキッチンの片付けも並行されて、田村さんと佐橋さんがテキパキと片付けていくのを、清々しい思いで見つめていた。
私が会計を済ますと、佐橋さんに「僕もいま上がるので、ちょっと待っててもらえますか?」と言われた。
もちろんです! という言葉は胸にしまい、代わりに「はい」と頷いた。
着替えをして出てきた彼は、打って変わって白シャツ姿だった。
白シャツから覗く腕もいいな、と思った。
「お掃除はいいんですか?」
「あとは若いモンに任せます」
私達は笑い合った。
「家、どちらなんですか?」
店を出ると、佐橋さんが訊いた。
「実は、私の家は、○○町なんです」
「じゃあこの辺は職場の近くとか?」
「いえ、そうでもないんです。本当にたまーに、散歩がてらの買い物で来るくらいで」
「じゃあ、あの店にはどうして?」
私はそこで口籠った。でも、いつか言うだろうから、と観念した。
「実は、私が歩いていた時に、たまたま佐橋さんが通りがかって。あの店に入っていくのを見たので、それで…」
「えっ?」
当然彼は、驚く。
「ごめんなさい」
何故か私は、頭を下げていた。
「あ、いや。謝らなくてもいいんですけど…」
しかし、彼は明らかに戸惑った様子。
「気味悪いって、思いました? そういうの…」
「あ、いや。そんなことは、ない、です…」
「ごめんなさい…」
私にとっては息苦しいひとときだった。
「本当にそんな謝らないでいいですよ。え、でも、僕に会いに来てたってこと、です…か…?」
「…はい」
彼はふっと頬を緩めた。
「俺、サトルと仲良しなのかなって、思っていたので」
「サトル?」
「あ、中村くんの下の名前。あいつ、かわいい顔してるでしょう。年上のお姉さんにモテそうだなって思ってたし」
そんな風に思われていたのか。
中村くんは確かにかわいいが、お店のマスコットキャラクター的な存在として誰からも好かれるし、誰にでも好かれるように務めていると思っていた。
「違います」
きっぱりと言ったら、彼は笑った。
「サトルがちょっと気の毒になった。でも」
そこで言葉を区切り、少し真面目な顔になった。
「紗織さん、いい人だなって、僕も思っていたんです」
「え?」
思いがけない言葉に、今度は私が驚いた。
「紗織さん、料理を受け取る時とか、きちんと ”ありがとうございます” って言うでしょ。食べる前も小さく手を合わせて "いただきます” って。それで、すごく幸せそうな顔して食べるし。なかなかいないんですよ、そういう人。だから印象に残っていたんです」
まさか、そんな風に思われていたなんて。
「ちょっと歩いてきちゃいましたけど、良かったら店の車借りてくるので、送ります。僕は今日は飲んでいないので」
まさか、そんな展開になるなんて。
* * * * * * * * * *
車の助手席に座ると、その閉じた空間に緊張で身体が硬くなった。
そんな私の緊張した様子を察したのか、彼はスマホを操作し、音楽を流し始めた。
Ann Salllyだった。
「あ、アン・サリー。お好きなんですか?」
「知ってるんですか?」
「少し前、よく聴いていました。ジャズを聴く時期があって」
「特定のジャンルを聴く時期って、あるよね。僕も彼女の声、大好きなんです」
「初めてお店に行った時も、流れてました。アン・サリー」
そう言うと彼は私を見て、意外だ、というような顔をした。
「よく憶えてますね」
「そういうのって、印象に残りませんか?」
「確かにね」
まさか私がAnn Sallly好きだということを知っていたわけではなさそうだが、お陰で気持ちが少し和らいだ。
「店のBGMは僕の趣味で流させてもらってるんです」
「じゃあ今夜の大橋トリオも?」
「そう。気付いてくれました?」
運転で前を向いたまま、彼は嬉しそうに微笑んだ。「好きなんだよね、彼の歌も」
交差点の信号で停まった時の、窓に右肘をついた彼の腕を見た。
なんというか、性欲を刺激される腕だと改めて思った。
車内のBGM、『星影の小径』が流れた。
「あ、この歌、大好き。アン・サリーが歌ってるのしかほとんど知らないんですけど。すごく美しい歌だなって思います」
「俺もそう思う。元は古い歌だし多くを語ってないのに、響くよね。歌詞と旋律もピッタリで。夜だなって思う。秋とかの、静かな、ひとりの夜」
私は彼のその感想に満足した。そして彼の言葉が少し砕けたことにも。
「紗織さんの声もすごく透明感あるから、こういう歌うたったら合うんじゃないかな」
「え、私が? そんなこと初めて言われました」
「そう? 俺はそう思ったけど」
声のことを言われたことはない。少しくすぐったいような気持ちになった。
「他にはどんなの聴くんですか?」
「そうだなぁ。フランスのミュージシャンも好きだけど。Henri SalvadorとかPierre Barouhとか」
「渋声どこですね」
「それも知ってるんだ。でも最近は日本のアーティストが多いかな。メロウな感じの」
彼は優しい歌が好きなんだろうなと思い、またひとつストン、と落ちる。
彼の感性は自分とも近いような気がして嬉しかった。
「お店では流さないんですか? フレンチボッサ」
「たまーに流すけど、なんか、コテコテになるでしょう。ちょっと恥ずかしくて。田村さんもその辺、何も言わないし」
車は家の近所まで来ていた。
「あ、家、この辺りです」
車は緩やかに路肩に停車した。
またこんな風に会えないかな、と思った。
「あの…」
私が言いかけた時、彼はハンドルに手をつき、私の方に身体を向けた。
その腕に、身体の芯が熱くなる。
「良かったら、また音楽の話とか聞かせてもらえないですか」
彼は優しく、ゆっくりとまばたきをして、頷いてくれた。
走り去る車が見えなくなるまで、見送った。
あっという間に、汗でシャツが肌に張り付いた。
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#3 へ つづく