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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#after tale
4月8日。
ソメイヨシノは残念ながらそろそろ終わりに近づきつつあったが。
僕たちはモスクで結婚の宣誓をした。
晴れて、夫婦となった。
兄には事後報告だった。メッセージで『結婚した』と送った。
時差の関係であろう。数時間後に電話が掛かってきた。
『お前、事前に言ってくれって言っておいたじゃないか』
「ごめん」
『衝動的だったのか?』
「そういうわけじゃないよ」
『まぁ…でも、おめでとう。良かったな』
「ありがとう」
本当は兄の声を聞いて情緒が不安定になるのを恐れていた。
僕と香弥子さんに取っては『宣誓』と『役所への届出』さえしてしまえば、それだけで大きな拠り所となるのだから、もう先延ばしするのはやめよう、と話していた。
「梨沙や蓮は新しい環境はどうなの?」
『思ったより平気だな。梨沙なんか特に環境変わると大事になるかと思ったけれど…3日くらいで適応したみたいだ』
「へぇ、すごい。嫁はどうなの?」
『…彼女が一番大変そうだな』
「そりゃそうだろうね」
『隆次は…その様子だとあまり心配するところはなさそうだな』
僕は兄の出国の翌日以降、香弥子さんが祈りとは何か、という話をしてくれた以降、祈りをより真摯なものにした。
普通の人よりもっと無力な僕は、祈ることに真剣になる必要があった。
神と一対一で向き合い、リセットする。
そして願う。愛する人たちの安寧と、より幸せに生きていくことを。
幸いイスラムの5回のサラー(礼拝)は、僕の心に不穏や不安が過る隙きを与えない。
サラーによって僕の心は保たれている。
「イスラムの教えが僕にも合っているみたいなんだ」
『ますます良かったな。そういえば香弥子さんがくれた "ファティマの手" は入口の扉近くに下げているよ。ドイツ人の同僚が引っ越しの片付けを手伝いに来てくれた時に、うちがムスリムなのかと思ったらしいが』
「そういう偏見はドイツにもあるの?」
『ないとは言えないだろうな。けれどお守りとしてもらったんだと話したら、その同僚は特に気に留めた様子はなかったが』
その時、兄の背後でなにやら騒がしい様子が伺えた。聞けばまだ仕事中だという。そりゃそうだ、ドイツはまだ昼過ぎだ。
じゃあまた、と言って電話を切った。
「お義兄さん、何かおっしゃってましたか?」
出来上がった食事を部屋に運びながら香弥子さんは訊いた。
「ファティマの手、玄関に飾っているそうです」
「玄関ですか。わかっていらっしゃるんですね。でも誤解されてしまうかも?」
「早速同僚にムスリムなのか、と言われたそうですよ」
「梨沙ちゃんや蓮くんは元気そうでしたか?」
「梨沙はすぐ環境に適応したそうです。蓮はよくわからないです。香弥子さんの時はどうでしたか?」
「そうですね。私は蓮くんよりも小さい歳で移住しましたから…家と外でする言葉の違いは比較的順応だったと思います」
「そうだ。もし新婚旅行をするとしたらどこがいいですか?」
「ふふ…隆次さんはドイツがいいんでしょう?」
僕は頭を掻いた。
結婚して僕の部屋には小さなテーブルとか兄の家からもらってきた食器などわずかに所有物が増えたが、TVは相変わらずなく、最近はサブスクの音楽も聴かなくなった。
香弥子さんに音楽を聴かなくなった理由を尋ねられたが、時を戻したくないからだ、と答えた。
僕しばらく、振り返りたくないと思った。
飛び移った環境に定着するまでは。
新たにEDの診察を受けて薬を処方してもらったが、まだ飲んではいない。
僕らは都合がつけば毎晩、裸になって抱き合って眠る。
自然とその時が来るのではないかと思って、結局何も出来なくてもいいから、と。まだ薬に頼らずにいる。
肌を交えたことは過去にもあるのに、それが安らぎになるなんて生まれて初めて知った。
毎晩、花びらのような柔らかさと温かさに包まれて、僕は眠る。
おやすみ。
END
※長いストーリーを最後まで読んでいただき、ありがとうございました。