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【連載小説】あおい みどり #4
このお話はフィクションであり、病状・医師やカウンセラーの対応については物語の進行上、事実と異なる場合があります。予めご了承ください。
~ 翠
「翠さん、たくさん話してくれましたね。疲れたでしょう。少し休みましょうか。そうだ、僕最近ハーブティーにハマっているんですよ。いかがですか? キク科のアレルギーは確か無かったですよね。苦手なハーブとかありますか?」
「ハーブティーは大丈夫だと思います。普段飲むことないですけど…」
南條は黙って微笑むと、ガラスのティーカップにゴールドに輝くお茶を注ぎ、私の前に置いた。
一口飲んだ私の様子を恐る恐るといった感じで伺っている。
温めのお茶。舌と喉にまったりとした甘さを感じたが、その後はレモングラスの清涼感がある。変なお茶だ。
「…どうですか?」
「…まぁ…まぁ、ですかね」
「あんまりだったかな」
「そんなことはないんですけど、お茶に感動することがそもそもないので」
そう言うと南條はちょっと笑った。
「普段はコーヒー派、ですか?」
「そうですね、どちらかというと」
「じゃあ次回はコーヒー用意しておきましょう」
「南條先生はコーヒーは飲まないんですか」
「飲みますよ。朝だけ、ですけど」
「朝以外は飲まないんですか」
「眠れなくなっちゃうんですよね。カフェインに弱い体質みたいで。お茶にもカフェインありますけど、お茶は大丈夫な気がするんですよ」
私はちょっとだけ笑った。医者のくせに "気がする" なんておかしいと思った。けれど私を見て南條も嬉しそうにした。
最後の一口を飲み終えた時、私は言った。
「お茶でいいです、これからも」
「…?」
「コーヒーではなくていいです」
「無理しないでいいんですよ」
「無理ではないです。訓練です」
「訓練?」
どういう意味で受け取っただろうか。私の惑いを。
一瞬、南條の瞳が真っ直ぐに私を射抜くような気がした。しかし、私の "惑い" には触れなかった。
「翠さんはお母さんのために本当に一生懸命やってきたんですね。お父さんに対してはどうですか?」
カウンセリングが再開されると、途端に私は口を噤んだ。
「お父さんはASDだとおっしゃっていましたね。今の自分はお父さんのせいだと、恨んだりしていますか?」
「…」
「お父さんとは意思の疎通がしにくい、そのもどかしさをお母さんが全て請け負ってくれたと…」
「男の人は、だめなんです。父親でも誰でも」
私の言葉に南條は明らかに目を見張った。
「お父さんもだめなんですか」
「母が…男には気をつけて、というので…」
私の声は消え入りそうだった。南條はメモを走らせる。うつむく私に質問を重ねる。
「友達や、同僚もだめですか」
「男友達だったらいません。会社は特に誰とも仲良くするわけではないので平気です。距離が保てれば大丈夫です。上司も男性ですが、良いとは思わないですけど、そこは割り切っているつもりです」
「僕はどうですか。男ですけど」
「先生は…だから…訓練なんです…」
うつむいたままなので南條の顔は見えなかったが、すっ、とした息遣いを感じた。
「でも、お父さんには訓練しないのですか?」
「…」
「話を変えましょう。お父さんとお母さんの関係はどうですか」
その言葉に身体が硬直する。南條は続ける。
「翠さん、翠さんは小さい頃、お父さんとお母さんが喧嘩をしているところなどを見てきたりしませんでしたか?」
フラッシュバック。
私は頭を抱えて俯いた。
「解離性同一症の原因は幼少期に受けた激しい苦痛や体験に起因していると言われています。きっと翠さんもそうなんだろうと思います。幼少期に受けた強いストレスやトラウマから自分を守ろうとした結果、自分の中に2つ以上の人格が入れ替わり現れ、そのつらい思いを他の人格に肩代わりさせようとして、別の人格が生まれたのかもしれません」
「…」
「今まで色々お話してくれた中でお母さんの事はたくさん出てくるし、翠さんも非常にお母さんのことを大切に思っているし、気遣っています。けれど、お父さんの話は一切出てきません」
何も答えられないまま俯く私に南條は続けた。
「翠さんは、お父さんの存在自体を消そうとしていませんか」
「…」
「辛いかもしれませんが、顔を上げて、僕を見てください」
しばらく動けなかったけれど、南條は辛抱強く待った。私がのそりと顔を上げると、いつもの穏やかな表情をしている。
「翠さんの夢に出てくる人は "蒼" と名乗る男性とおっしゃっていましたね。彼に対してはどうですか」
「蒼は…男だけど…別に何かされるわけではないし…特になんとも」
「その "蒼" さんは、翠さんを助けるために現れてくれたのかもしれないですね」
南條は、蒼が言ったことと同じことを言った。
やがて目の前が真っ暗になる。
*
気がつくと、暗い部屋の中で横たわっていた。
ハッと起き上がり、自分の部屋のベッドの上だと悟る。
「あ、あれ…私…」
南條先生のところにいたはずなのに…。
もしかして、蒼…?
~ 蒼
南條医師は俺を見て、ほんの一瞬目を見開いただけで、すぐに頬を緩めた。
「蒼さんですね、初めまして」
むしろ言葉を失ったのは俺の方だった。
「なんで…俺だってすぐわかるの」
「わかりますよ」
そう言って微笑みかけた南條医師は、まるで菩薩だった。
「今、翠さんは?」
「…わかるだろ、引っ込んだ」
「翠さんに過度のストレスが掛かったから、蒼さんが出てきたのですか」
「…まぁ、そんなところ」
南條医師の表情は柔らかいが、その瞳の奥に鋭く光るものを、俺は感じた。
無理もないか。初対面だし、そもそも俺に関心があるはずだし。
「蒼さんのこと、話してくれますか。歳はいくつですか」
「31」
「翠さんの3つ上ですね。蒼さんの他にも誰かいますか?」
「何人かいると思うけど、休眠してるって言えばいいのかな。会ったことはない。今は俺と翠だけだと思う」
「他の人格を統括しているのは蒼さん?」
「今はそう…なると思う。以前はわからない」
「蒼さんは、翠さんの記憶は共有できているのですか」
「出来るようになった」
「最初からではない?」
俺は自分が登場した当時の様子を南條医師に話した。
「翠さんがつらい目にあっている所を、助けるために現れた。そんな感じですか」
「…うん、そう。だと思う」
「翠さんは普段、入浴中から就寝の間までの記憶がよく無くなると話していましたが、それは蒼さんが登場している間という事ですか」
「うん。シャワーを浴びている時に入れ替わる事が多い」
「日中は交代しないのですか」
「…言われてみれば、今日が初めてな気がする」
「交代は蒼さんの意思で行われるのですか」
「俺の意思…? いや…そういうわけでもない…かな」
南條医師はメモを取った。文字面まではよく見えないが、彼がペンを滑らせる様は知的で品があった。病弱な昔の文学青年が詩を綴らせるような、そんな感じだ。
手元を見る伏し目がちのまつ毛に、俺は見惚れた。
彼は今度は少し真面目な表情になって、更に質問をいくつかしてきた。
「僕は翠さんの家族について質問をしているところでした。聞いていましたか」
「…何となく」
「翠さんに起こっていることは、全て把握しているのですか。常に見ているというか」
「いや。記憶が流れ込んでくる感じで、必要な時に必要なだけ…って感じなのかな。全部じゃないと思う。大体は何となくわかっているけど」
「翠さんはほとんど憶えていないか、夢の中で会話したような感覚だと話していました」
「知ってる」
「蒼さんは、翠さんが幼い頃からいたのですか」
「…いや…わからない。リアルタイムで俺が存在していたのかは、よくわからない。でも翠が見たり感じたりしたことは、俺の脳内に流れてきている感じで、何となくわかってる」
ここで南條は頬を緩め、柔らかに微笑んだ。俺は続けて言った。
「あんたさ、俺のこと消すのが仕事なんだよな?」
「消す?」
「この身体を本来の持ち主、翠だけのものにして、俺は消えないといけないんだろ?」
南條医師はよほど驚いているのか、目を丸くした。
「だって、異常事態だろ、今の俺は」
「異常というのなら、過去に翠さんの身に起こったことは異常なことかもしれない。けれど、蒼さんの存在が異常なわけじゃないですよ」
今度は俺が驚く番だった。
「え、何言ってるの?」
「蒼さんは必要だから生まれてきた。翠さんが出来ないことを、蒼さんがサポートする…いや、実行するのかもしれない。むしろ今は蒼さんと翠さんはある意味理想的な状態と言えるのだろうと思います」
「理想的?」
「蒼さん。最近は解離性同一症の治療は交代人格を無理に消すのではなく、共存していくことを目標とする治療法も出てきています。心身に危害が及ばないか、社会的に極端な不都合が生じないか、それによって存在する人格に悪影響を及ぼさないか。その辺りをクリア出来れば、消える必要なんてないのです。僕はそう思っています」
俺は南條医師の目をじっと見つめた。
目尻の皺が優しい。でもその目の奥は、ゾッとするほど鋭い。
それは攻撃という意味ではなく、何かを貫くといった意味の鋭さだ。
中性的で菩薩みたいな奴だなと思っていたが、とんでもないかもしれない。
俺はこの男を "怖い" と思った。
#5へつづく
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