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意外と悪くない「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」、何が問題だったのか
今日、映画館にて「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」を観た。
筆者が観に行こうというときには海外からの酷評が耳に入っており、まあちょっと失敗してるくらいなら逆にどう失敗したのかに興味が湧くので観にいくのをやめようとはならないのだが、どうやらミュージカルと化しているらしい。
子供の頃に観た「ライオンキング」でさえ嫌うほど重度のミュージカル嫌いだった筆者はそれを聞いた途端観に行く気が失せかけたが、重い腰を上げて観に行くこととした。
結論から言うと、筆者からすれば本作品はそこまでひどい映画ではなかったし、そもそもミュージカルだとは思わなかった。
本記事では、本作品がひどいミュージカル作品だと思っている人の誤解と、個人的な正しい解釈について、そして本作品の真にダメな部分を書く。
結局何の映画だった?
端的に言うと、「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」のほとんどは主人公・アーサーの妄想である。
注意して観ていないと見逃すだろうが、ハーリーン・クインゼル改めリーが「歌う女」とアーカム・アサイラムの看守に形容されていたのに対してアーサーが歌っている、と発言したキャラクターは作中に存在しない。
さらに言うと、アーカム・アサイラム内で最初に急に歌い始めた時のカットは明らかに彼の歌は彼の妄想だということを示しているし、裁判中に笑い声が聞こえるときも傍聴席をよく見ると誰も口角が上がっていない。
アーサーが歌っているときの映像はすべて彼の妄想であるし、そうでない時でさえ彼の妄想が入り込んでいる場合があると言うことだ。
では、なぜ前作から急に舵を取って歌が入り込んできたかと言うと、アーカム・アサイラムでジョーカーとしての人格が消え入りつつあったアーサーに出会ったリーに原因がある。
彼女は終盤で裕福な家の出であり心理学に精通していることが明らかになるが、彼女の病的なジョーカーへの固執が消えかけていたジョーカーを呼び起こし、その際アーサーはリーに精神的に依存、ジョーカーは歌に精神的に結びつくこととなる。
リーは女性経験の少ないアーサーの彼女への依存をうまく利用し、ジョーカーを彼から引き摺り出そうとした。その際のトリガーとなったのがたまたま歌だったわけだ。
余談だが、アーサーもリーも別に音楽は好きではないだろう。アーサーは母親に虐待されて歪み切った精神でピエロをやっていたわけだし、リーはアーカム・アサイラムで火災を起こす際楽譜とピアノを燃やしている。故に、歌うジョーカーはその異常さを引き立たせる役割はあれど、プロットで言えば音楽という概念に特段の意味はないと筆者は思っている。
少し話が逸れたが、結論、本作品はミュージカルではない。リーがジョーカーを呼び起こす道具がたまたま音楽であり、アーサーの妄想で歌が頻出するというだけであり、いわゆるミュージカルとは一線を画すものである。
このような解釈に行きつかぬまま映画を見終えてしまうと、確かに本作品はシンプルにあまり面白くないミュージカル映画である。
本作品の歌の部分はアーサーとジョーカーの病みきった精神状態を表しているのだから、観察者羞恥全開で見るのが正解であるし、それを意図して制作されていると筆者は思っている。
何がダメだったのか
細かい指摘はいくらでもできるが、根本の部分で欠けていたのはなにより狂気だ。前作でこれでもかと前面に押し出され、そのピークで幕を閉じたジョーカーの狂気は今作では跡形もなく消えており、挙句残ったのはリーに完全に精神を掌握された精神病の男である。
DCの世界で確立されているはずのジョーカーの悪のカリスマ的立ち位置は完全に消えており、ただただリーがアーサーを振り回す2時間だった。もはやリーが主人公だった。
アーサーの内面の描写に重きを置きすぎていて、狂気の顕現する瞬間があまりに少なく、前作からのファンを根こそぎ置いてけぼりにしてしまっている。
そう言った点では、失敗するのも仕方がない映画ではあっただろう。
感想
そうは言ったものの、筆者の個人的な意見としてはまあまあ楽しめた映画だった。
裁判所爆破はアーサーの内面描写で忘れかけていたゴッサムの最悪の治安を思い出させてくれたし、その際顔面の左半分に大怪我を負った検察官のハーヴィー・デント。トゥーフェイス誕生の瞬間である。最後アーサーを襲撃した受刑者も「ゴッサム」のジェロームそっくりであり、コアなファンのための小ネタのおかげで終盤は非常に楽しめた。
直近効果で評価が歪んでいる可能性はあるが、ジョーカーの”終わり”としては非常に良い映画だったとさえ思う。
今後トゥーフェイスやジェロームを扱った映画が制作されるかはわからないが、一つの終演としてきれいな終わりを迎えてくれた作品だった。