不毛を毛に、したろうて
あけましておめでとうございます。
実はnote書き初めから『「愛と正義」なんて、その辺の犬にでも喰わせておけ』という不穏なタイトルで記事を書こうとしていました。内容はそれほど不穏でもないつもりでしたが、note書き初めってもっと……今年の抱負語ったりするんでしょう? 言いたいことが多すぎて上手く纏まらないこともあり「新年早々辛気臭いのもどうなの?」ということもあり、急遽方向性を変えました。少しでも明るくなれる話がいいな。『「愛と正義」なんて〜』で書きたい話は、それこそ、その辺の犬にでも喰わせておけばいいので。……いや犬に失礼かな。ごめん犬。
#note書き初め 的には、2021年の抱負を語るのでしょう。でも、それは前回書いたので割愛。
最近、考えたことを書きます。
“理不尽なことを思い出して腹が立つけど、まさに「理不尽」だからダメージを負うのは不可避だったので今更考えても無駄“ とか “心配したって自分にできることはないから考えても無駄“ とか
考えてもどうしようもないことが頭を占拠して、マイナスな心理になることがあります。
その時によく言われるのが、
日に当たって
栄養をとって
体を動かそう。
素晴らしい。
これ全部、正攻法だと思う。
例えは悪いけど「薬物を使えば親が死んでもハッピーになれる」とか「抗うつ剤使えば、気分が上向きになる」とか、集中力や注意力が散漫になる障がいだって薬による治療でなんとかできてしまう時代です。むなしいけど、ほんの少しの化学物質で我々の「気分」や「感情」なんて簡単に変わる。脳内物質の問題。セロトニンとか。だから、日に当たるのも栄養とるのも体を動かすのも、脳内で良い感じのホルモンを分泌して気分をあげる正攻法で最高峰。
でも、まだいい感じのホルモンがでてない時には、そういう気分になれない時もあるよね。筋肉理論があつくるしく感じる時とか。
いや、ぶっちゃけ筋肉理論は間違ってないのよ。
実際、体を動かせば悩みなんてぶっ飛ぶ。
運動は素晴らしい。
筋肉は裏切らない。
裏切ったとすれば、先に筋肉を裏切ったのは俺たちだ。
ま〜〜〜でもそれで全部なんとかなるんだったら、鬱病や精神病なんてない。
日に当たるのも面倒な時、栄養をとっても吸収できなくて戻しちゃう時、体を動かす気分にならない時がある。
原因不明の気分の落ち込みとか、心配しても仕方ないこと考えちゃうとか、自分にも原因があるな〜って思うことは「甘えてないで、やるぜ!」って腹決めて、やる。もちろん、やったら上向きになるから、やっぱ体の健康って心の健康と連動してるんだなって思える。
一番そんな気分にならないのは、理解不能な目に合わされたことを思い出した時。なんで、理不尽な目に合わされた側が、日に当たったり、栄養とったり、運動したり、自分の気分上げる努力をしなければいけないの? 不条理すぎるだろうがよ。そもそも自分のご機嫌を自分でとれずに心ない言動で人の気分や肯定感を容赦なく引きずり下ろしてくる奴こそ、そういう努力をしなければいけないシステムにしたらよい。人を鬱病一歩手前まで追い込むのでしたらば、自分がセロトニンやらオキシトシンやらいい感じのホルモンを頑張っても出せなくなって償ったらええやんけ?それが鬱病。一度くらい味わったらよいよ。
……こんな思考になるのも、おそらく脳内ホルモンの問題。気分がいい時とかは「自分は最後の最後まできちんと対応したんだから、それだけで素晴らしいな」と、自分のことに焦点を当てて褒めてあげられる。相手のこととか心底どうでもよくなる。そうでなくても「環境・相手が悪かったな」って心から思えるということは、その時に思う最善な言動行動を自分はできた、ってことだから、本当はとっても幸せなことなんだよね。一方で、いい感じのホルモンが出ていないときは「理不尽」として処理できなくて、条理を求めてしまう。「もっとこういう言動行動をとれば、自分はこんな目に合わされなかったんじゃないか」とか「そういう人間と関わってしまった、見抜けなかった自分が悪いんじゃないか」とか、まだこれは根本的には相手が悪いと思ってるけど、究極「相手のことをわかってやれない自分が悪い」とか「許してあげられない自分が心が狭いんだ」とか「相手にわかるように説明してやれない自分が悪い」とか。こうなると悪循環。不毛不毛不毛不毛。
こんなときに、やってほしいことがあります。
運動もやってほしい。
やってほしいが。
そんな元気もないとき。
『ボボボーボ・ボーボボ』を読む。
ボーボボです。
ボーボボを読んでください。
何も考えずに『ボボボーボ・ボーボボ』を読んでください。
「理不尽」とか「不条理」って一見、体に悪い。できれば人間、理不尽な目に遭いたくないから、原因不明で回避不可能な事故なんてあっちゃいけないんです。性被害なんかで被害者にも落ち度があったんじゃないかと責める心理もそれだと言われています。被害者が一切悪くないとすると、「理不尽」に嫌な目に合わされることが、この世に存在すると認めてしまうから。だから、原因や理由がないところにも、原因や理由を追求してしまう。でも
「理不尽」とか「不条理」ってこの世にあるよ。
原因不明で、回避不可能な事故はある。
あるものはあるって認めた方が、体にはいい。
脳はちょっぴり、疲れるけど。
不条理に条理を求めることって、犯人ではない人をわざわざ犯人扱いしにいくみたいなもんだから、最終的に自分とかを犯人にでっちあげてしまう人も出てくる。いや、冤罪です。やめてください。
その点、ボーボボは
理不尽、不条理、でしかない。
全員被害者で、全員犯人。
笑いは誰も傷つけない。なんて、綺麗な漫画じゃありません。登場人物は仲間でも傷つきまくって削り節みたいになるし、一つの話で何回死んだ?ってぐらいに死にまくる。味方にどてっぱらに穴開けられて死ぬし、豆腐の角に頭ぶつけて死ぬ。今からすごいネタバレをかまします。
つけものは、死ぬ。(ネタバレ)
読んでて脳は疲れる。兄が「『銀魂』読むと台詞多くて疲れる」「種村有菜先生の漫画は画面の情報量が多くて読むと疲れる」って言ってたのが、私にもわかった。全ての物事には理由がある派の私にとってボーボボは読むのが最初は大変だった。「なんで?」って思って数ページ戻って読んでも、どこにも理由なんてないから。
でも、一度「理不尽」「不条理」を受け入れてしまえば
これほどまでに楽なことはない。
この世に蔓延る理不尽に理由を求めて、脳が疲れるよりも、よっぽどマシ。
「ふ〜ん。なぜかあいつと会話成立しなかったけど、ボーボボにしてはハジケ足りないな。」
「こっちは友好的に会話を試みてるのにマウント取りにこようとされて至極不愉快だったけど、自分がヒロインと思い込んで、ビュティを攻撃してる首領パッチみたいなもんか。」
くらいに処理しておけばいい。
「こういうことをしてくる相手は、深層心理では自己肯定感が低く、本当は自分に自信がないので他者を〜〜」と、そういうのももちろん救いにはなるけど、それが救いになる時は自分でポジティブな脳内物質が出せていて、少しだけ思考に余裕がある時。本当にしんどい時って「…で?」ってならない?自分に自信がなければ、幼少期に愛情が足りなければ、幼稚であれば、劣等感があれば、わからなければ、悪気がなければ、何してもいいの?理由はわかった。わかったけれども。そんなしょうもない理由で自分が傷つけられたってこと自体が、理不尽で、不条理で、気持ちのぶつけどころがなくて、受け入れられない状態の人もいる。
理不尽を受け入れる。理屈っぽい人間ほど、難しい。でも、難しいことの第一歩として、ボーボボを読む。どうですか、このライフハック。
もし、一度、この理不尽が飲み込めるのであれば
納得いかなければボーボボ
納得がいけばボーボボ以外
のマインドで
善悪とか理由とか条理とか原因とか考えず
現象だけ受け止めてやっていきましょう。
それでなんとなく、
日を浴びてみたくなったら浴びたらよい。
食べたくなったら食べればよい。
体動かしたくなったら動かしてみたらよい。
毛の話を読んで
不毛を毛に、してやろう。
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